藤原利仁(読み)ふじわらのとしひと

朝日日本歴史人物事典 「藤原利仁」の解説

藤原利仁

生年生没年不詳
平安中期の武人鎮守府将軍民部卿時長と越前国人秦豊国の娘の子。魚名の孫。上野介,上総介を経て延喜15(915)年,鎮守府将軍。伝説的な人物として知られ,『今昔物語集』には,「心猛クシテ其ノ道(武勇)ニ達セル者」とあり,新羅征討を命じられたが,かの地にいた円珍に調伏された話を記す。また藤原基経に仕える「五位」という男に大量の芋粥を馳走した話は,芥川竜之介によって小説化されて有名(『芋粥』)。源頼朝は文治5(1189)年,平泉(岩手県平泉町)を攻撃しての帰路,達谷窟に立ち寄った際,坂上田村麻呂と共に悪路王を討った利仁の武勇譚を聞いている(『吾妻鏡』)。南北朝時代に成立した『尊卑分脈』ではさらに誇張され,「海路を飛ぶこと翅在るが如し。人おもえらく,神の化せし人かと」と記され,『鞍馬蓋寺縁起』など利仁を鬼神や悪賊退治のヒーローとした物語は数多い。越前国の豪族有仁の娘婿になったという話もあり,敦賀市御名には利仁の館跡がいまも伝えられる。

(瀧浪貞子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原利仁」の意味・わかりやすい解説

藤原利仁
ふじわらのとしひと

生没年不詳。平安初期の貴族。北家魚名(ほっけうおな)流、民部卿(きょう)時長(ときなが)の子。斎藤、加藤、後藤、進藤などの藤原氏流中世武士の祖。なお、母は越前(えちぜん)国住人の女(むすめ)と伝えられ、子孫の一部は北陸地方に盤踞(ばんきょ)した。911年(延喜11)以降、上野(こうずけ)、上総(かずさ)、武蔵(むさし)などの東国国司(こくし)を歴任し、915年には、「海路を飛ぶこと翅(つばさ)ある人の如(ごと)し、もって神化人(しんかのひと)となす」という伝説のある父時長と同様、鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任じられた。彼自身の逸話としては、「芋粥(いもがゆ)」の説話(今昔(こんじゃく)物語)が有名であるが、そのほか、坂東(ばんどう)における「異類」討伐の軍略(鞍馬(くらま)寺縁起)、新羅(しらぎ)討伐への発遣と狂死(今昔物語)など、対外関係の面での説話も重要である。

[保立道久]

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原利仁」の意味・わかりやすい解説

藤原利仁 (ふじわらのとしひと)

平安中期の伝説的な武将。生没年不詳。藤原魚名(うおな)の後裔,民部卿時長の子。母は越前の人秦豊国の女。越前敦賀(つるが)の豪族有仁の女婿となった。上野介,上総介,武蔵守などを歴任。この間915年(延喜15)には鎮守府将軍として下野国高座(たかくら)山のほとりに結集した群盗を鎮圧したと伝えられる。《今昔物語集》をはじめとする説話類には,新羅征討将軍に任ぜられて途中で頓死した話,芥川竜之介の《芋粥》の原型となった話などがみえる。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原利仁」の解説

藤原利仁
ふじわらのとしひと

生没年不詳。平安中期の武将。民部卿藤原時長の子。母は越前の人秦豊国の女。越前国敦賀の豪族有仁の女婿となった。911年(延喜11)上野介となり,以後上総介・武蔵守など坂東諸国の国司を歴任。この間915年に下野で群盗を鎮圧した(「鞍馬蓋寺縁起」)。鎮守府将軍を勤めるなど平安時代の代表的な武人として伝説化され,多くの説話が残る。五位の男に芋粥を食べさせようと,京から敦賀の館へ連れ帰った話(「今昔物語集」)は有名。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原利仁」の解説

藤原利仁 ふじわらの-としひと

?-? 平安時代中期の武人。
北家藤原魚名の子孫で,父は藤原時長。上野介(こうずけのすけ),上総(かずさの)介をへて延喜(えんぎ)15年(915)鎮守府将軍となる。越前(福井県)敦賀(つるが)の豪族有仁の娘婿となり,越前・加賀斎藤氏の祖とされる。伝説的な武勇の人で,「今昔物語集」などに説話がおおい。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原利仁」の意味・わかりやすい解説

藤原利仁
ふじわらのとしひと

平安時代中期の鎮守府将軍。藤原北家魚名の6世の孫。鎮守府将軍時長の子。摂関家藤原氏に仕え,延喜年間 (901~923) 上野介,上総介,武蔵守,鎮守府将軍などを歴任。武勇の伝説が多い。『今昔物語集』に彼に関する説話があり,芥川龍之介の小説『芋粥 (いもがゆ) 』の原典となっている。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原利仁の言及

【坂上田村麻呂】より

…《吾妻鏡》は田谷窟(たつこくのいわや)(現,達谷窟)について述べる中に〈田村麿・利仁等の将軍〉が蝦夷征伐のとき,敵主悪路王(あくろおう)・赤頭(あかがしら)たちがこの窟に柵を構えたとし,のち,田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して,鞍馬に模して多聞天(毘沙門天)像を安置した(文治5年(1189)9月28日条)と伝える。《鞍馬寺縁起》に藤原利仁が鞍馬の毘沙門天の加護で下野国の群盗を平定した由が見えるから,《吾妻鏡》の記事は田村麻呂伝承が利仁伝承や鞍馬の毘沙門天信仰とも交渉をもっていたことを示している。《元亨釈書》延鎮伝は田村麻呂が清水寺の勝軍地蔵・勝軍毘沙門の加護により奥州の逆賊高丸を討ったとし,《神道集》巻四や《諏方大明神画詞》などは諏訪明神の神徳によって蝦夷の長〈悪事(あくじ)の高丸〉または〈安倍高丸〉を平定したとする。…

※「藤原利仁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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