成田山新勝寺(読み)なりたさんしんしようじ

日本歴史地名大系 「成田山新勝寺」の解説

成田山新勝寺
なりたさんしんしようじ

[現在地名]成田市成田

正しくは成田山明王院神護新勝じんごしんしよう寺と号するが、一般には成田山・成田不動の名で知られる。関東三不動の一。真言宗智山派の大本山で、本尊は木造不動明王(国指定重要文化財)。縁起によると、平将門が東国において反乱を起こしたとき(将門の乱)朱雀天皇は将門討伐の軍を送るとともに広沢遍照ひろさわへんじよう(現京都市右京区)の寛朝に宝剣を授け、乱を平定する祈願を命じた。寛朝は山城神護じんご寺に安置されていた不動明王像を奉じて東国に下り、下総国公津こうづヶ原に護摩壇を設け、二一日間の朝敵調伏の護摩を修した。その満願の日、将門は藤原秀郷・平貞盛らの軍勢に攻められて討死し、乱は平定した。天慶三年(九四〇)二月一四日のことで、この日を新勝寺の開山とし、以後東国鎮護の道場になったという。中世は千葉氏の外護を受けたが一時衰退し、その後数度の変遷を経て、永禄九年(一五六六)に現在地に移り再興されたという。

文禄三年(一五九四)の成田村検地帳(豊田家文書)に寺名がみえ、九反余を名請している。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳には成田村新勝寺とあり、末寺六ヵ寺を有していた。当寺が大きく興隆するのは中興第一世と尊称される照範の時である。元禄一三年(一七〇〇)に入寺した照範は新本堂をはじめ三重塔仁王門など諸堂伽藍を次々と建立して寺観を整え、同一六年には江戸出開帳を成功させ、江戸民衆の注目を集めた。近世初期以来佐倉藩の祈願寺となり、代々の藩主に信仰された。なかでも篤信者は稲葉正通(正往)で、新義真言宗の支配者であった護持ごじ(跡地は現東京都文京区)の隆光とはかり、宝永四年(一七〇七)には新勝寺を京都大覚寺の直末として常法談林にするなど寺格を向上させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「成田山新勝寺」の意味・わかりやすい解説

成田山新勝寺
なりたさんしんしょうじ

千葉県成田市にある真言宗智山派の大本山。成田不動ともいう。寛朝によって天慶3(940)年創設された。本尊は嵯峨天皇の勅願により空海が刻したという不動明王。以後,鎮護国家霊場としてしだいに隆盛し,皇室とも関係があった。元禄年間には中興の照範が本堂などを建立,整備し,明治に入り照輪のときに今日の成田山の基礎が築かれた。1963年からの改築により,1967年新本堂が完成した。光明堂,釈迦堂,三重塔,仁王門,額堂が国の重要文化財に指定されている。

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事典 日本の地域遺産 「成田山新勝寺」の解説

成田山新勝寺

(千葉県成田市成田1番地)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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