隆光(読み)りゅうこう

精選版 日本国語大辞典 「隆光」の意味・読み・例文・類語

りゅうこう リュウクヮウ【隆光】

江戸中期新義真言宗の僧。字(あざな)は栄春、通称は護持院大僧正。貞享三年(一六八六)将軍綱吉の命を受けて筑波山知足院に住したが、常に将軍の近くにあって「生類憐みの令」の発布などその信仰政策に関係し、元祿元年(一六八八)には許されて知足院別院を江戸に移し、護持院と改称した。のち大僧正に進み、社寺興隆と新義派の発展に努めたが、綱吉没後は郷里大和国(奈良県)の超昇寺に退いた。慶安二~享保九年(一六四九‐一七二四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「隆光」の意味・読み・例文・類語

りゅうこう〔リユウクワウ〕【隆光】

[1649~1724]江戸中期の新義真言宗の僧。大和の人。あざなは栄春。将軍徳川綱吉の信を得て筑波山の知足院主となり、のちこれを江戸に移して護持院と改称。生類憐みの令を提言したという。通称は護持院大僧正。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「隆光」の意味・わかりやすい解説

隆光
りゅうこう
(1649―1724)

江戸初期の真言(しんごん)宗の僧。字(あざな)は栄春(えいしゅん)、俗姓は川辺氏。大和(やまと)(奈良県)の人。12歳のとき唐招提寺(とうしょうだいじ)の朝意(ちょうい)に従って受戒、ついで豊山(ぶざん)(長谷寺(はせでら))の亮汰(りょうた)(1622―1680)に師事。18歳のとき京都で詩書、春秋、老荘を学び、高野山(こうやさん)、興福寺、法隆寺醍醐(だいご)寺で東密(とうみつ)、唯識(ゆいしき)、華厳(けごん)、三論(さんろん)、倶舎(くしゃ)を学ぶ。将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の寵遇(ちょうぐう)を受けて筑波(つくば)山知足院主(ちそくいんしゅ)となり、のちにこれを江戸神田橋外に建立し護持院(ごじいん)と称する。将軍とその母桂昌院(けいしょういん)の外護(げご)により乙訓寺(おとくにでら)、室生寺(むろうじ)を中興して新義派に転ぜしめ、また筑波神社、熱田(あつた)神宮などの社寺多数を復興した。一方、江戸城に日々登城して将軍の左右に侍して勢力を振るい、世に護持院大僧正(だいそうじょう)と称された。関東の新義真言宗はこの隆光のころをもって最盛期とする。

[吉田宏晢 2017年10月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「隆光」の解説

隆光

没年:享保9.6.7(1724.7.26)
生年:慶安2.2.8(1649.3.20)
江戸前・中期の新義真言宗の僧。豊山派興隆の功労者,生類憐みの令の黒幕。大和添下郡二条村(奈良市)出身。10歳で唐招提寺朝意の門に入り,12歳で出家。長谷寺(豊山)の亮汰以下の諸師から密教を修学したほか,奈良諸寺で唯識,華厳,倶舎などを,京都で儒学老荘をも学んだ。貞享3(1686)年名声を耳にした将軍徳川綱吉に江戸知足院へ招聘され,城中鎮護の祈祷を担当。霊験あらたかなため綱吉と生母桂昌院 の寵愛を受け,権僧正に抜擢された。翌4年綱吉と桂昌院の意を迎え,生類憐みの令を進言したという。元禄1(1688)年知足院を江戸城鬼門の神田橋外に移して大伽藍を建立,のちに護持院と改称した。同3年新義派の祖,覚鑁に対し興教大師の諡号宣下に成功。同8年新義派全体を統括する僧録司となり,同派初の大僧正にも就任した。宝永4(1707)年の引退まで,江戸城中にあって将軍家の安穏を霊的に守護すること22年におよび,この間権勢を利用して疲弊した各地の寺社復興にも尽力したが,綱吉死去に伴い威勢を一挙に喪失,開創に全力を尽くした護持院もわずかか30年で消滅した。隆光の成功も失脚も,ともに彼の過剰なほどの政治的手腕に原因があったといってよい。著書に『理趣経解嘲』など。『隆光僧正日記』は元禄前後の歴史状況を知るうえで貴重。<参考文献>林亮勝「将軍綱吉と護持院隆光」(日本仏教学会編『仏教と政治経済』)

(正木晃)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「隆光」の意味・わかりやすい解説

隆光 (りゅうこう)
生没年:1649-1724(慶安2-享保9)

江戸中期の新義真言宗の僧。大和添下郡二条村に生まれ,唐招提寺朝意のもとで仏門に入り,1660年(万治3)長谷寺浄泉亮汰に学ぶ。ついで奈良諸寺で唯識,華厳,三論,俱舎を受講し,86年(貞享3)江戸湯島の知足院住職となり,江戸城中鎮護の祈禱を務めた。将軍徳川綱吉に認められ,同年権僧正に抜擢(ばつてき)。88年(元禄1)には神田橋外に5万坪の地を賜り,知足院をここに移した。91年僧正となり,95年には寺領500石を加えて1500石となり,寺名を護持院と改め,新義真言の僧録を命ぜられ,隆光は大僧正に昇った。将軍綱吉と生母桂昌院に取り入り,〈生類憐みの令〉も実子を強く望む綱吉に彼が勧めたものと伝えられるが,同令が年とともに極端にはしったことに深く関与していると考えられている。1707年(宝永4)駿河台成満院に退き,09年綱吉死後大和超昇寺に隠居した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「隆光」の意味・わかりやすい解説

隆光
りゅうこう

[生]慶安2(1649).2.8. 大和
[没]享保9(1724).6.7. 大和
江戸時代中期の新義真言宗の僧。京都,奈良,高野山で顕密の学をきわめ,貞享3 (1686) 年徳川綱吉の命により筑波山知足院の主となる。のち大僧正に任じられ,権威をもって諸社寺を興隆し,また大いに根来山の復興をはかった。綱吉にすすめて「生類憐みの令」を行わせるなど,将軍の寵を一身に受けたが,綱吉没後は郷里の超昇寺に隠棲して没した。著書『聖無動経慈怒鈔』『筑波山縁起』など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「隆光」の解説

隆光
りゅうこう

1649.2.8~1724.6.7

江戸中期の真言宗新義派の僧。5代将軍徳川綱吉の護持僧。出自は大和国の旧家河辺氏。1658年(万治元)仏門に入る。唐招提寺・長谷寺で修学したのち,奈良・醍醐で密教を修行。86年(貞享3)将軍家祈祷寺の筑波山知足院の住職に命じられたのを機に,急速に綱吉の帰依を得た。95年(元禄8)真言宗新義派では初の大僧正となる。著書「理趣経解嘲」「筑波山縁起」。日記「隆光僧正日記」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「隆光」の解説

隆光
りゅうこう

1649〜1724
江戸中期の真言宗新義派の僧
大和(奈良県)の人。5代将軍徳川綱吉とその母桂昌院の帰依を得,1688年江戸神田橋外の護持院の開山となった。将軍綱吉が生類憐みの令を出したのは彼の進言によるといわれる。のち大僧正・僧録司になった。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「隆光」の解説

隆光 (りゅうこう)

生年月日:1649年2月8日
江戸時代前期;中期の新義真言宗の僧
1724年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の隆光の言及

【護持院】より

…1688年(元禄1)湯島の知足院を神田橋外の武家屋敷の地に移し,寺観も一新して護持院と改めた。開山は知足院の隆光で,彼は将軍綱吉に認められ権僧正に任ぜられた。91年には朱印1500石の寄進を受け,院家に列し,関東真言宗新義派の総録とされた。…

※「隆光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android