恭仁宮跡〈山城国分寺跡〉(読み)くにきゅうせき〈やましろこくぶんじあと〉

国指定史跡ガイド の解説

くにきゅうせき〈やましろこくぶんじあと〉【恭仁宮跡〈山城国分寺跡〉】


京都府木津川市加茂町にある宮殿跡。奈良県境に近い木津川右岸に位置する宮跡で、その場所に奈良時代の741年(天平13)に聖武天皇の詔勅によって全国に建立された国分寺の一つが移転したと考えられる。大宰府での藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を契機東国を巡幸した聖武天皇が、山背国相楽郡甕原(やましろのくにそうらくぐんかめはら)の地に入った740年(天平12)から、難波宮(なにわのみや)を皇都とする744年(天平16)までの4年間を皇都としたのが恭仁宮である。平城宮から恭仁宮に移った聖武天皇は、五位以上の者の平城京居住を禁じて恭仁京への移住を促し、造宮卿を任じて造営を推進するとともに、平城宮の大極殿などが移築された。都は鹿背(かせ)山の東西に左右京があって、恭仁宮の正式名称は大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)という。天皇は742年(天平14)になると近江に紫香楽宮(しがらきのみや)を造営してしばしば行幸し、743年(天平15)には恭仁宮の造営を停止すると翌年には難波宮に移り、745年(天平17)に平城に戻った。746年(天平18)9月には、恭仁宮の大極殿が国分寺に寄進されたことが『続日本紀』に記されている。調査の結果、宮の規模は東西約560m、南北約750mで四周に大垣がめぐり、宮城門としては東面南門が確認されている。宮の中央やや北側には大極殿地区があり、大極殿基壇の規模は東西約60m、南北約30mで、基壇上には原位置をとどめる花崗岩礎石2基と、転用された凝灰岩製礎石6基が残存する。大極殿回廊も大極殿と同様に平城宮から移築したと思われる。山城国分寺跡遺構は国分寺境内と大極殿を転用した金堂跡とその南東にある塔跡で、塔跡は方形の土壇上に花崗岩の礎石がある。寺の範囲はこの2ヵ所の遺構を中心として、東西約275m、南北約330mで、南端部には大門や東大門という名の地域がある。恭仁宮跡は天平期の聖武天皇を中心とする当時の政治状況を理解するうえで重要な遺跡であることから、1957年(昭和32)に国の史跡に指定されていた山城国分寺跡が、2007年(平成19)に追加指定され、現在の名称に変更された。JR関西本線加茂駅から徒歩約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報