大垣(読み)おおがき

精選版 日本国語大辞典 「大垣」の意味・読み・例文・類語

おお‐がき おほ‥【大垣】

[1] 〘名〙
① 居宅などの周囲の大きな垣。築地(ついじ)などをいう。外囲い。総がこい。
源氏(1001‐14頃)賢木「ものはかなげなる小柴垣(こしばがき)をおほがきにて、板屋ども、あたりあたり、いとかりそめなり」
② 「おおがき(大垣)の刑」の略。その際に罪人を引きまわした大きな垣。
※浮世草子・好色一代男(1682)二「哀れ、今も鹿(しし)ころせし人は其科(とが)を赦(ゆる)さず大がきをまはすとかや」
③ 牧場の周囲に作る垣。
[2] 岐阜県南西部の地名江戸時代は戸田氏一〇万石の城下町で、東海道と中山道を結ぶ美濃路の宿駅。現在は中京工業地帯西北端の商工業都市。芭蕉の「奥の細道」結びの地。大正七年(一九一八)市制。

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デジタル大辞泉 「大垣」の意味・読み・例文・類語

おおがき【大垣】[地名]

岐阜県南西部の市。もと戸田氏の城下町で中心部は河川や水路が縦横に流れる水郷地帯。繊維・化学工業が盛ん。平成18年(2006)3月に上石津町墨俣すのまた町を編入したが、両町の旧域はそれぞれ別の飛び地となっている。人口16.1万(2010)。

おお‐がき〔おほ‐〕【大垣】

邸宅や寺院などの、いちばん外側の垣。外囲い。

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改訂新版 世界大百科事典 「大垣」の意味・わかりやすい解説

大垣[市] (おおがき)

岐阜県の南西部にある市。2006年3月旧大垣市が上石津(かみいしづ)町と墨俣(すのまた)町を編入して成立した。3地域に分かれた飛び地合併である。人口16万1160(2010)。

大垣市中部の旧市。1918年市制,67年赤坂町を編入。人口15万1030(2005)。揖斐(いび)川扇状地の末端部,標高10m以下の輪中地帯の北端にある。戦国時代に築城された大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返され,関ヶ原の戦の際の籠城は《おあむ物語》に詳しい。1635年(寛永12)譜代大名戸田氏10万石が封ぜられてから幕末まで続いた城下町であり,美濃路の宿場,桑名方面に水門川の舟運が通じる物資の集散地であった。明治期には水害と濃尾地震(1891)などによって一時衰退したが,大正期から第2次世界大戦前にいたる間には中央資本による大規模な繊維工場が設立され,化学工場も進出して近代的な工業地となった。東海道本線の全通(1889),河川改修による水害の克服,良質で豊富な地下水,電力の供給開始,農村の余剰労働力などの諸条件によるものである。1945年に戦災を受けたが,市街地とともに既設工場も急速に復興し,新設工場の進出もみられ,ことに輸送機械器具を主とする工場が設立されて複合的工業地となった。美濃赤坂へのJR東海道本線,樽見鉄道線,近鉄養老線(2007年養老鉄道に移管)が通じ,名神高速道路,国道21号線,県道などの新設・整備によって西美濃の中心としての機能をさらに強めた。地場産業に大正期ごろから始められた量器の升の生産がある。北西部の赤坂は中山道の宿駅で,明治以降金生(きんしよう)山の豊富な石灰岩を利用して石灰工業,大理石工業が発達している。西部の青野町には美濃国分寺跡(史)があり,本尊であった薬師如来像は重要文化財に指定されている。
執筆者:

美濃国安八(あんぱち)郡の城下町。中世には大井荘のうちにあり,大柿とも記す。16世紀に土岐氏の被官宮川安定が牛屋村に築城して以来,それを中心に発展し,近世に入ると大垣藩大垣城の城下町として,また美濃路の宿駅,西濃地方最大の都市として繁栄した。近世の大垣町は,外壕内を中心とする侍屋敷と町方からなり,町方は17世紀初めまでにできたとされる〈古来町〉と,その後に形成された〈出来町〉に大別される。美濃路の宿駅としての大垣町は,街道が町を北東に抜けて,それに沿う町々を往還町と称し,また南北に通じる水上交通が発達しており,水門川岸の船町湊は桑名や伊勢方面などとの舟運でにぎわったという。町の規模は,1641年には町屋602軒,1843年(天保14)には町屋1383軒,人数5097人とあり,宿機能としては本陣,脇本陣,問屋場がそれぞれ1,旅籠屋14軒などと記録されている。明治初年の廃藩置県で大垣県(1871年7~11月)が設置されると,県庁所在地となり,同県が岐阜県に吸収された後には安八郡役所などがおかれた。
執筆者:

大垣市西部の旧町。旧養老郡所属。人口6423(2005)。東の養老山系,西の鈴鹿山系に囲まれた盆地に位置し,中央を牧田川が北流する。集落は川沿いに散在し,中心集落は宮。三重県に抜ける伊勢街道の道筋に当たり,江戸時代には牧田に宿場が置かれた。農業は自給自足程度で,薪炭業を生業としてきたが,衰退し,観光農業などの開発を進めている。国道356号線の開通により伊勢湾臨海工業地帯と接続された。一之瀬のホンシャクナゲ群落,多良のシブナシガヤは天然記念物,一之瀬の桑原家住宅は重要文化財に指定されている。牧田川上流の多良峡は景勝地である。

大垣市東部の旧町。旧安八郡所属。人口4617(2005)。東境を長良(ながら)川が流れ,西方を流れる揖斐川との間の輪中地帯に位置する。古くから軍事・交通の要地で源平合戦,承久の乱の舞台となり,近世は美濃路の宿駅として栄えた。半商半農の町であったが,現在は岐阜・羽島両市と旧大垣市のベッドタウン化が急速に進んでいる。
執筆者:

1586年(天正14)まで墨股(俣)で木曾川本流(現,境川)が長良川に合流していたため,古くは洲股,洲俣とも書いた。古代には東海道と東山道を結ぶ美濃路が通じており,墨股渡があった。835年(承和2)に太政官符により渡船が4艘に増加されるとともに川の両岸に布施屋が設置された。中世には,垂井から尾張国葉栗郡黒田(現愛知県一宮市,旧木曾川町)へ通ずる鎌倉街道の墨股宿がさかえた。また,交通の要衝としてしばしば東西勢力の衝突の場となった。1181年(養和1)の源平合戦の際には,源行家が平重衡・維盛らの軍と戦い敗走しており,承久の乱や南北朝内乱期にも戦場となったが,これらの戦いは墨俣川の戦と呼ばれている。鎌倉街道の宿は現在の墨俣町大字下宿あたりにあったが,15世紀後半には大字墨俣へ移転された。またこのころには,墨股は河川交通上の要地ともなり,ヒノキ材は木曾川を川下げして墨股から駄送された。1566年(永禄9)に織田信長は,美濃の斎藤氏を攻略するための拠点として,木下藤吉郎に命じて墨股城を築かせたが,藤吉郎は非常に短期間のうちに完成したので,この城が別名一夜城といわれたことは有名である。
執筆者: 1586年の洪水による河道変動以降,長良川と五六川など支川との合流点となる。江戸時代は初め加藤貞泰,ついで稲葉内匠の領地であったが,1619年(元和5)以降尾張藩領となった。古く鎌倉時代には,浮橋(船橋)が架けられていたことが《吾妻鏡》や《十六夜日記》にみえるが,江戸時代にも将軍上洛のおりなど船橋が架けられ,美濃路の宿駅,渡船場として町並みも発達し,1653年(承応2)六斎市が開かれた。
執筆者:

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日本歴史地名大系 「大垣」の解説

大垣
おおがき

南北朝時代から登場する地名。初めは大柿と記す。暦応三年(一三四〇)の大井庄華厳会料名寄帳(東大寺図書館蔵)に「大柿殿」とみえ、観応二年(一三五一)六月日の大井庄内買得相伝田畠坪付(同館蔵)には「大柿道場」「大柿出口」とあって、大柿が大井おおい庄内の地名であり、地名を名字としたのが大柿殿であったと推定される。大柿が大井庄内のどこに比定されるのかは不明。地名としての「大カキ」は、応永一六年(一四〇九)の石包名等名寄散田帳(宮内庁書陵部蔵)などに「大垣」という表記がみられ、文安三年(一四四六)の室町幕府奉行人連署奉書案(大橋文書)に大井庄下司名(石包名)代官大垣中務丞氏信の名がみられるのが早い事例である。

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世界大百科事典(旧版)内の大垣の言及

【垣】より

…古代の宮城や寺院の周囲の垣には築地が多く用いられた。これは当時は築垣あるいは大垣と呼ばれたが,枠を組んで土を層状に突き固めた上に屋根をふくもので,大陸伝来の技術である。平安時代から鎌倉時代にかけての貴族住宅の様式である寝殿造では,敷地の周囲に築地をめぐらすほか,建物の周囲や庭の仕切りに多くの種類の垣が用いられた。…

【築地】より

…【清水 拡】 築地は古代以来,宮都,城柵,国郡衙,寺院等の境域を区画するために設けられた。大規模なものは大垣とよばれ,平城京の南面大垣は高さ約12mにも達し,陸奥の多賀城の南辺では幅15~17m,高さ2mの基礎盛土の上に基底幅2.7mの築地が築かれた。これらは崩れた跡が土塁と識別できないので,実体は官衙であった古代の城柵が,永らく土塁をめぐらした軍事施設とだけみなされてきた原因となった。…

※「大垣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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