すべて 

徳川忠長(読み)トクガワタダナガ

精選版 日本国語大辞典 「徳川忠長」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐ただなが【徳川忠長】

  1. 江戸初期の大名。秀忠の三男。幼名国松。駿府五五万石を領し、権大納言に任ぜられたが、兄家光の忌諱に触れ高崎藩に預けられ、自刃。駿河大納言。慶長一一~寛永一〇年(一六〇六‐三三

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川忠長」の意味・わかりやすい解説

徳川忠長
とくがわただなが
(1606―1633)

江戸初期、2代将軍秀忠(ひでただ)の第3子。母は正室浅井氏お江(ごう)。3代将軍家光(いえみつ)の同母弟。駿河大納言(するがだいなごん)と称された。父母に愛され兄家光と3代将軍の座を争ったが、祖父家康の裁定で家光が後継者に決したという著名な話がある。将軍家連枝(れんし)として甲斐(かい)国(山梨県)が与えられ、ついで駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)の所領が加えられ、駿府(すんぷ)城に居し、55万石を領するに至った。官位も従(じゅ)二位、権(ごん)大納言に昇った。しかし1631年(寛永8)には大御所秀忠(ひでただ)にその粗暴の行為がとがめられ甲州内で蟄居(ちっきょ)することを命ぜられた。忠長は金地院崇伝(こんちいんすうでん)、南光坊天海(てんかい)らを通じて赦免を請うたが許されず、翌年秀忠没後、上州(群馬県)高崎に移され幽閉され、領地は没収された。そして寛永(かんえい)10年12月6日自殺せしめられた。忠長は優れた人物だったとする説もあり、この事件については狂気説のほか陰謀説など諸説があって、真相はかならずしも明らかではない。

[林 亮勝]

『若林淳之著「徳川忠長」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「徳川忠長」の意味・わかりやすい解説

徳川忠長 (とくがわただなが)
生没年:1606-33(慶長11-寛永10)

江戸前期の大名。幼名国松。世に駿河大納言ともいわれる。2代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。3代将軍家光の弟。甲府20万石にはじまり,1624年(寛永1)甲斐・駿河などで55万石を領し,駿府城に入る。才知にすぐれ父母に寵愛されたため家光にはうとまれたといわれ,また30年ころから乱行が目だったため,31年甲府に蟄居(ちつきよ),翌年上野高崎城に幽閉され,33年自刃した。これにより徳川宗家権力は強化された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川忠長」の解説

徳川忠長 とくがわ-ただなが

1606-1634* 江戸時代前期の大名。
慶長11年5月7日生まれ。徳川秀忠(ひでただ)の3男。母はお江与(えよ)の方(崇源院)。寛永元年駿河(するが)(静岡県)府中藩主となる。55万石。3年従二位,権(ごんの)大納言。駿河大納言とよばれた。兄の3代将軍徳川家光(いえみつ)との確執から,8年甲斐(かい)(山梨県)に蟄居(ちっきょ),ついで上野(こうずけ)(群馬県)高崎に幽閉され,寛永10年12月6日自害させられた。28歳。幼名は国松。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川忠長」の意味・わかりやすい解説

徳川忠長
とくがわただなが

[生]慶長11(1606).5.7. 江戸
[没]寛永10(1633).12.6. 高崎
江戸時代初期の大名。秀忠の3男。母は浅井氏。幼名は国松。通称は駿河大納言。父母の寵愛を一身に集め,兄家光をさしおいて世子に擬せられたが実現しなかった。元和2 (1616) 年甲斐に封じられ,寛永2 (25) 年さらに駿河,遠江を加増されて 55万石を領した。翌年8月 20日従二位大納言に叙任。同8年5月乱行を理由に甲州へ蟄居を命じられ,翌年には上州高崎へ移され,同 10年高崎の大進寺で自刃。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

367日誕生日大事典 「徳川忠長」の解説

徳川忠長 (とくがわただなが)

生年月日:1606年5月7日
江戸時代前期の大名
1634年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の徳川忠長の言及

【徳川家光】より

…江戸幕府3代将軍。2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早死)。母は浅井長政の三女江与(えよ)(逵子(みちこ),崇源院)。幼名竹千代。法号大猷院。誕生とともに稲葉重通の養女福子(のちの春日局(かすがのつぼね))が乳母となる。永井直貞・松平信綱・稲葉正勝(春日局の子),おくれて阿部忠秋らが小姓に召された。幼時,両親の愛情は弟国千代(忠長)にそそがれていたが,祖父家康が嫡庶の序にしたがい世子と定めさせたと伝えている。…

【松平長七郎】より

…江戸初期の武家。一説では,駿河大納言徳川忠長の子,名は長頼,1614年(慶長19)に生まれ,61年(寛文1)に没したという。この伝によれば,忠長が大逆不道の罪をもって28歳で自刃した33年(寛永10)には長七郎20歳となり,年齢が相応しない。…

※「徳川忠長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

すべて 

《「晋書」杜預伝から》竹が最初の一節を割るとあとは一気に割れるように、勢いが激しくてとどめがたいこと。「破竹の勢いで連戦連勝する」[類語]強い・強力・強大・無敵・最強・力強い・勝負強い・屈強・強豪・強...

破竹の勢いの用語解説を読む