弘願寺(読み)ぐがんじ

日本歴史地名大系 「弘願寺」の解説

弘願寺
ぐがんじ

[現在地名]津幡町加賀爪

津幡川左岸沿いに位置する単立寺院。鳥越山と号し、本尊阿弥陀如来。戦国期は河北郡の大坊主として鳥越とりごえにあり、「天文日記」などでは「鳥越」とも通称されている。寺伝では近世初頭に能登国堀松ほりまつ(現志賀町)から金沢を経て現在地に定まったという。

「日野一流系図」によれば、本願寺四世善如の末弟という玄頓が弘願寺と号したことに始まるというが、撰者の実悟自身「不慥義也」とし、草創の年次に触れていない。玄頓の子玄教は「賀州河北郡鳥越住、文明元六月十五日卒、五十三」とあり、戦国期には鳥越の現大国主おおくにぬし神社付近にあったことが知られる。一方、貞享二年寺社由緒書上は玄頓を本願寺三世覚如の真弟とし、観応元年(一三五〇)の草創とするので、これ以降観応元年成立説が定着した。玄頓を覚如の子とするのは、善如の父従覚が本願寺の歴代に数えられないためであろう。当寺仏御裏書覚(寺蔵)は観応元年覚如が玄頓に下付した木仏も記すが、文明一一年(一四七九)四月二三日順如が玄照に下付した阿弥陀如来絵像裏書には「加州加卜郡笠野鳥越弘願寺常住物也 願主釈玄照」とみえる。前掲系図では当寺三世に「玄昭、文明三十二月廿一日卒、七十三」がいるが、同覚は蓮如の笠野かさの池原いけがはら巡錫の折、鳥越から供をした五世蓮慶が拝領したとする品々を列記するので、前掲系図にみえる玄照は蓮慶に相当する可能性もある。当寺の本願寺派における地位向上には、周覚玄真(現福井県上志比村の荒川興行寺、本願寺五世綽如の子)系との婚姻関係が大きく寄与した。

弘願寺
こうがんじ

[現在地名]瓜連町下大賀

下大賀しもおおがの西方字新地あらじにあり、境内の西隅には榧や杉の巨木が茂る。帝青山と号し、臨済宗円覚寺派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると貞和元年(一三四五)佐竹貞義建立開山は広円明鑑大拙祖能。初めはしず大明神の境内にあり、神領一五〇石のうち一六石の配分を受けたが、寛文八年(一六六八)徳川光圀が今の地へ移し、新たに除地を寄付した。寛文三年の開基帳(彰考館蔵)によると増井ましい(現常陸太田市)の済家宗(臨済宗)正宗しようじゆう末寺で、夢窓国師の開山。

弘願寺
ぐがんじ

[現在地名]大淀町大字越部小字上垣内

越部こしべ集落の中央、伊勢南街道の北側にある。法谷山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寛永一一年(一六三四)に寺号とともに本尊を許され(「天保下寺帳」西本願寺蔵)、木仏本尊の台座銘に「正徳四年三月森本五兵衛尉喜捨修履」とある。親鸞の直弟性空から八代目の教俊の草創と伝える。安永五年(一七七六)の当寺由来記(寺蔵)には教俊は越部の小山一宇を建て、蓮如の遊化に当たって山号と寺号を賜り、真筆六字名号を下付されたと伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android