平野郷(読み)ひらのごう

百科事典マイペディア 「平野郷」の意味・わかりやすい解説

平野郷【ひらのごう】

摂津国住吉郡にあった在郷町で,現在の大阪市平野区平野一帯にあたる。平野郷町ともいい,街衢(がいく)は平野川西岸にあり,環濠(かんごう)に囲まれていた。奈良街道,八尾街道,大坂街道が通り,中高野(こうや)街道起点という陸上交通の要衝であるとともに,平野川に続く水路を通じて柏原船が就航する物資の集散地であった。また融通念仏宗本山大念仏寺があり,その門前町としても賑わった。 古代は住吉郡杭全(くまた)郷(《和名抄》)に属し,中世は杭全(くまた)荘の地。杭全荘は平野荘とも称され,中世後期には荘内に町場が形成され,規模は小さいとはいえ泉州に並ぶ自治都市であった。1584年のフロイスの書簡に〈堺の向う一レグワ半の所に甚だよい町がある。悉く竹をもって囲まれ,城の如くなっていて,平野と称する。(中略)甚だ富んだ人達の村である〉と記されている。しかし当時進行中の羽柴秀吉豊臣秀吉)による大坂築城,城下町建設に伴い,当地の商人の多くは大坂,天王寺に移住させられた。さらに大坂の陣のとき豊臣方の焼打ちにあったが,1615年当地の豪商末吉吉安が徳川氏に協力した功により平野荘代官に任命され,町割を改めて復興させた。1594年の太閤検地高は4805石余,復興時の建家552軒。1679年の検地高は5619石余。郷町は7町と属村(散郷)4で構成され,街衢は東西約440間,南北約550間の菱形で,幅4間ほどの濠と幅・高さとも1間以上の土居をめぐらせ,碁盤目状に区画されていた。江戸時代には各町は個別に高付けされており,住人は百姓として把握されていたが,552軒の軒役高も定められていた。7町には各々町会所があり,2〜3人の年寄が置かれ,散郷には各村に村年寄3〜4人がいた。これらを総会所の総年寄5名が統轄して行政を担った。主たる産業は散郷での綿作と繰綿で,1706年には田方224町余のうち116町余,畑方131町余のうち107町余が綿作にあてられ,全耕地面積の63%強を占めていた。1761年には70%強に達するが,その後しだいに下降。1801年には63%強にまで落ちたが,以後再び盛んになり,1845には約76%に上昇している。繰綿でも一大産地として知られ,江戸をはじめ諸国から注文を受け,大坂商人の手を経ないで直接売り出していた。1705年には竃数2625のうち職人が1212を占め,このうち木綿繰屋166,繰綿買問屋9,同売問屋8があった。産物はほかに平野糖,産薬,平野酒が著名。人口は1732年の1万401人をピークにその後しだいに減少し,1836年には7513人。郷町の産土神は熊野権現社(祇園社ともいい,現在の社名は杭全神社)で,中世には杭全荘の結合の中心として宮座が結成されていた。大坂の天満宮とともに連歌の神としても知られた。1717年郷民により漢学塾〈含翠(がんすい)堂〉が創設され,1872年まで存続した。平野郷町は江戸時代後期以降,物資の集散機能が落ちて衰退傾向を示すが,1893年には平野紡績(のち大日本紡績)が創設されている。1925年大阪市住吉区に編入,1943年分区により東住吉区,1974年さらに分区により平野区となる。

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改訂新版 世界大百科事典 「平野郷」の意味・わかりやすい解説

平野郷 (ひらのごう)

摂津国住吉郡の在郷町(現,大阪市平野区)。中世には平等院領杭全荘(くまたのしよう)などがあったが,戦国期に環濠都市として発展,七名家といわれる末吉,土橋(つちはし),三上,成安,辻葩(つじはな)らが年寄として支配した。自治意識が強く,三好氏の代官本庄加賀守の排斥や,織田信長にも堺と連合して抵抗し,その代官蜂屋頼隆の下代排斥を行った。織田政権下では年貢定金納,地下請(じげうけ),市津料(ししんりよう)・陣夫(じんぷ)免除,徳政免除などの特権を認められ,豊臣前期にもその多くが継続された。1594年(文禄3)太閤検地で高4805石8斗5升となる。郷内は本郷7町で,惣年寄5名と各町年寄が行政を担った。また末吉孫左衛門のように,江戸幕府の代官を務め朱印船貿易を行う豪商を出した。領有関係は織田・豊臣の直轄領,秀吉夫人(高台院)領,徳川直轄領をへて,柳沢吉保領となって以後,一時,幕領になったが,松平本多,松平,土井と譜代大名領が続いた。

 平野郷は大城下町大坂の建設でかなりの住民が移住したが,在郷町として発展した。大坂南部綿作地帯の中心で,17世紀後半には木綿市がたち,竹屋など関東へ繰綿(くりわた)を数百駄も送る商人もでている。戸口は古軒役(こけんやく)552軒であるが,1704年(宝永1)の戸数2543,人口9272人であり,06年1万0686人をピークに停滞する。名産は木綿で,05年綿作率は田方51%,畠方80.7%,このころの木綿関係商工業者は繰屋166軒をはじめ286軒であり,紡車,つむ,綿繰機の道具がつくられている。酒造も1697年(元禄10)造石株(ぞうこくかぶ)561石余があり,多くの商工業をもっていた。また上層民を中心に杭全神社連歌所にみられる文芸活動があり,1717年(享保2)には惣年寄土橋友直らが郷学の含翠堂(がんすいどう)を創立し儒学による教化運動を行った。明治期には綿作は衰退するが平野紡績などができ,大阪南郊の経済的中心となった。1925年大阪市に編入される。
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日本歴史地名大系 「平野郷」の解説

平野郷
ひらのごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに「平野」と記し、かついずれも訓を欠く。「ひらの」と訓じるのが定説である。高山寺本は駅名にもあげる。「延喜式」(兵部省)に「周防国駅馬」として「平野」とあるから、山陽道の駅家を兼ねた郷と思われる。刊本には平野郷の次に駅家郷を記すので、平野郷と平野駅家郷の二郷あることになるが、平野郷の次の駅家郷は、おそらく記載上の誤りであろう。

平野郷
ひらのごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「比良乃」。「播磨国風土記」に枚野ひらの里があり、同地がかつて「少野」であったとするが、なぜ枚野というのかは記さない。

平野郷
ひらのごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「比良乃」。「播磨国風土記」に枚野ひらの里とみえ、地名は体、すなわち地形によるとある。名のとおり平野に存在した。

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世界大百科事典(旧版)内の平野郷の言及

【油】より

…そのころ原料もエゴマ・ゴマからナタネへと重心が移り,さらに綿実(わたざね)も登場して,ナタネから絞った水油と綿実から絞った白油が近世の油の主流となった。江戸・大坂の需要に応ずる近世の絞油業は,まず大坂長堀川に臨む船場・島之内と天満を中心に展開し,また1705年(宝永2)摂津平野郷には綿実絞油屋が28軒を数えた。14年(正徳4)に大坂へ積み登された商品中,価額の大きいものとして米に次いでナタネ(登せ高15万1000石,銀28万貫)があり,また大坂より諸国へ積み下した商品の筆頭は水油であった。…

【平野藤次郎】より

…大坂平野郷の豪家末吉の一統で,朱印船貿易家,銀座頭役,それに摂津国平野の代官職を務めた。父は末吉藤右衛門の三男次郎兵衛(長成)といい,その次男が藤次郎(正貞)で姓を平野と改めた。…

※「平野郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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