常寂光寺(読み)じようじやつこうじ

日本歴史地名大系 「常寂光寺」の解説

常寂光寺
じようじやつこうじ

[現在地名]右京区嵯峨小倉山小倉町

小倉おぐら山の東山腹に位置する。小倉山と号し、日蓮宗本尊十界大曼荼羅。もと天龍てんりゆう寺の塔頭であった弘源こうげん寺を本国ほんこく(現京都市山科区本圀寺)の日が寛永年中(一六二四―四四)退隠所に譲受け、日蓮本国末寺となし常寂寺または軒端のきば寺と称した。本堂は慶長年間(一五九六―一六一五)伏見ふしみ(現京都市伏見区)の建物の一部で造営し、釈迦如来安置仁王門は本国寺客殿の南門を元和二年(一六一六)移築。仁王像(金剛力士像)は高さ七尺余あり、若狭小浜おばま(現福井県小浜市)長源ちようげん寺から移したもので、運慶作と伝える。

常寂光寺
じようじやつこうじ

[現在地名]金砂郷村中利員

あさ川東の山の中腹後鷺山うしろさぎやまとよばれる地にある。日蓮宗で開会山常寂光寺と号する。本尊は釈迦牟尼仏

「常陸国北郡里程間数之記」に「元真言ノ密寺ナリ、西山公山御寺新ニ七堂伽(ママ)ニ御建立阿リ此砌密寺ヲ法華ニ御取立京より引て日周上人ヲ招請し給ひ開基ニ被遊し」とみえる。この時地元民は光圀より改宗を命ぜられたがこれを強く拒んだともいう。寺伝によると初め上利員鏡徳かみとしかずきようとく寺の末寺であったが、元禄九年(一六九六)日周の弟子元政が新宿あらじゆく久昌きゆうしよう(現常陸太田市)末に改めたという。「日乗上人日記」の同年二月の条に「十六日ニ年数ノ寺ヘ入院のよし今日午時年数ニつく。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「常寂光寺」の意味・わかりやすい解説

常寂光寺
じょうじゃっこうじ

京都市右京区嵯峨小倉山(さがおぐらやま)町にある日蓮(にちれん)宗本圀寺(ほんこくじ)派の寺。山号は小倉山。1595年(文禄4)本圀(国)寺第16世日禎(にってい)のとき、豊臣(とよとみ)秀吉の大仏千僧供養(せんぞうくよう)出仕の問題に関して妙覚寺日奥は不受不施(ふじゅふせ)を唱え、出仕反対を貫いた。日禎も出仕せず、1596年、本国寺を退き、この地に草庵(そうあん)を結んだのが当寺の創始である。のち角倉了以(すみのくらりょうい)、小早川秀秋らの帰依(きえ)を受け、寛永(かんえい)年間(1624~44)に寺とした。多宝塔は1620年(元和6)京都町衆の寄進により建立され、国の重要文化財に指定されている。

[田村晃祐]

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