帝国改革(読み)ていこくかいかく(英語表記)Reichsreform

改訂新版 世界大百科事典 「帝国改革」の意味・わかりやすい解説

帝国改革 (ていこくかいかく)
Reichsreform

15世紀末から16世紀初めにかけて試みられた神聖ローマ帝国の体制をめぐる改革をいう。

 神聖ローマ帝国は15世紀末に実質的にはほぼドイツだけを支配する国家にほかならず,自立性を強めてゆく領邦権力の前で皇帝はかつてもっていた権限を失い,皇帝と帝国とが分離しつつある状態であった。このような状況のなかで帝国がかつてカール大帝ザリエル朝のもとでもっていた権威の回復を標榜する帝国改革案が数多く出されていくが,それらは執筆者が属する諸身分の立場をあらわに示した改革案にすぎなかった。

 1439年にバーゼルで成立したとみられ,版を重ねた《ジギスムントの改革》は台頭しつつあった領邦権力によって皇帝の諸特権が奪われ,皇帝権が弱体化したとみなし,帝国の改革は騎士層と都市のイニシアティブのもとに行われるべきだと主張している。版によって重点のおき方は異なるが,そこでは都市や農村における体僕制(不自由)を廃棄することも主張されている。

 ニコラウス・クサヌスは同じころ《教会一致論De concordantia catholica》(1433)を著し,人間は生来自由な存在で理性をもち,自己のなかに法をもっているという前提から出発して,支配者は自由な同意によって正当化されるべきであり,同意は選挙によって表現されると主張した。彼は教皇の至上権を否定し,むしろ帝国都市を改革の主体として位置づけている。

 1498年から1510年の間に書かれた《上ラインの革命家の書》は100章からなる改革案であり,筆者は知られていない。エルザス(現,アルザス)出身とみられる筆者は聖職者,諸侯貴族を激しく攻撃し,帝国は庶民der gemeine Mannの革命によって改革されるべきだと主張した。庶民が帝国の主体となって皇帝をいただくという構図が考えられている。1525年に書かれ,27年にライプチヒで印刷された《新しい変化についてVon der neuen Wandlung》は,新しい世界秩序は選挙によって生み出されるべきであり,その改革の主体は農民が担わねばならないと主張している。つまり農村共同体を主軸とする国家秩序の建設を夢みているのである。

 このような多様な改革案が提出されたが,いずれも皇帝と領邦権力の対立のなかでなんの効果ももちえなかった。1495年のウォルムスの帝国議会でマインツ選帝侯ベルトホルト・フォン・ヘンネベルクBerthold von Henneberg(1441か42-1504)を先頭にして領邦権力は国王に代わって統治する帝国統治院Reichsregimentの設置を提案したが,国王などの反対にあって実現しなかった。しかしこの議会において永久ラント平和令が制定され,私闘権(フェーデ)を完全に廃棄し,民間人だけでなく帝国等族にもいっさいの自力救済を禁止し,裁判手続のみを認めたことは法共同体としての国家にとっては大きな意味をもっていた。こうした施策を実施するために,帝国最高法院Reichskammergerichtを宮廷から切り離してフランクフルト・アム・マインで常時開催することになった。また帝国最高法院の費用をまかなうために一般帝国税Gemeiner Pfennigの徴収が議論されたが,その徴収には多くの抵抗があった。1521年の帝国議会において永久ラント平和令と帝国最高法院は更新され,さらに帝国統治院も設立された。しかし皇帝カール5世によって,帝国統治院は皇帝が不在の期間のみ,皇帝を代理する機能しか認められなかった。このようなさまざまな試みにもかかわらず,改革案は皇帝と領邦権力の対立のなかで何の効果ももちえず,国家の施策は,実質的には,領邦権力にゆだねられることになったのである。
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