川下村(読み)かわくだりむら

日本歴史地名大系 「川下村」の解説

川下村
かわくだりむら

[現在地名]川本町川下・多田たた久座仁くざに谷戸たんど桜江さくらえ坂本さかもと

川本村・因原いんばら村の北、江川北岸の河岸段丘に立地。河下とも記す。古くは石川いしかわ村と称したと伝え、江川も現在より南寄り、川本八幡宮辺りを流れていたが、度々の洪水で流路を変えたという。

〔中世〕

当初は河本かわもと郷に含まれていたが、のち当地一帯は独立した所領単位として川下(河下)とよばれた。現在の川本字弓市ゆみいちに比定される抽見ゆみ村はかつては小笠原氏領であった河本郷の中核的な集落として江川水運の要地であったと考えられるが、のち川下のうちに含まれた。文明一〇年(一四七八)正月二一日の井原経信譲状(庵原家文書)では、経信から井原弥次郎に「河本郷内ゆミの村」のうち「かちへやしき」が譲与されており、この所領はかつて「大殿道賢」(小笠原長弘)から経信の親「しやうしゆ」に永代給付されたものであったと記される。永正九年(一五一二)六月一日の小笠原長隆判物(同文書)では、「河下之内」として「ゆミの内六百前」など小笠原氏から井原氏に与えられてきた代々の給所が、先祖以来の忠節によって本領として井原民部左衛門に改めて与えられている。同一〇年三月二日、小笠原長隆は被官の井原民部左衛門に「抽見之内壱貫前」の知行を宛行っている(「小笠原長隆判物」同文書)。天文一〇年(一五四一)七月一〇日、小笠原長徳は武明たけあきら八幡宮の祭礼田として「抽見村二百前」を寄進している(「小笠原長徳書下状」武明八幡宮文書)

川下村
かわしもむら

[現在地名]佐世保市川下町

相神浦あいこのうら村の南東、新田しんでん村の南西、相浦あいのうら川が九十九島くじゆうくしま湾に注ぐ河口部にある。江戸時代は相神浦山口あいこのうらやまぐち村のうちで、明暦二年(一六五六)平戸藩の普請により相神浦地先が干拓され、寛文六年(一六六六)完成したというが(松浦家世伝草稿)、明暦二年の田方帳抜書では相神浦大里あいこのうらおおざと(山口村)内に川下免とあるので、すでに川尻の地として地名があったと考えられる。

川下村
かわくだりむら

[現在地名]鳴瀬町川下

南流する鳴瀬川右岸、同川に架かる現小野おの橋付近に位置。西は上下堤じようげつつみ村、南は浅井あさい村、対岸は小野本郷。石巻いしのまき街道が通り、小野本郷とは渡船で結ばれる。正保郷帳では田三七貫六五文・畑二貫二四七文で、旱損と注され、ほかに新田九貫七三一文。「封内風土記」では戸数三七。「深谷風土記」(「鳴瀬町誌」所収)では寛永年中(一六二四―四四)の竿答百姓四人。

川下村
かわしもむら

[現在地名]浜益郡浜益村大字川下村

明治初年(同二年八月―同六年)から明治三五年(一九〇二)までの浜益郡の村。尻苗しりなえ村の北にあり、西は海、一部は海浜に沿って浜益川の北に至る。山中に位置し、平地は毘砂別びさんべつ川以北の海浜に少しある(状況報文)。近世はカハスモ、ビシャンベツなどと記録される地域。「丁巳日誌」(天之穂日誌)に「カハスモ」と記録され、「人間言也。川下と云事か」とある。「石狩国地誌提要」によると戸数三一(すべて永住)・人口一二七(男七三・女五四)、畑四町四反。大心だいしん寺のほか一八六〇年(万延元年)創建の稲荷社、六七年(慶応三年)創建の竜神社がある。「共武政表」によれば二九戸、男七一人・女五五人。

川下村
かわくだりむら

[現在地名]桜江町坂本さかもと川本かわもと町川下・多田たた久座仁くざに谷戸たんど・川本

大貫おおぬき村の東、江川中流域右岸に位置する。西側に甘南備寺かんなみじ(五二二・四メートル)がそびえ、南麓に古刹甘南備寺がある。応永一六年(一四〇九)九月三日の源長宣寄進免状(甘南備寺文書)河本かわもと郷内甘南備寺の敷地として「東ハうつまきをかきる」と記されるが、東境は現在の坂本字渦巻うずまきと推測される。

川下村
かわしもむら

[現在地名]小原村川下

田代たしろ川の下流域にあり、百月どうづき榑俣くれまたを通る西岸せいがん道が通ずる。巨岩の重なる下を田代川が流れる一帯は地獄じごく谷とよばれる。

寛永郷帳では岡崎藩領、明治元年(一八六八)重原藩領である。慶安三年(一六五〇)の三州賀茂郡小原之内岡崎領川下村検地帳(鈴木早苗氏蔵)では屋敷一一筆の持主と面積が書上げられている。享保一二年(一七二七)の御林山反別(鈴木早苗氏蔵)では松木立九六町歩である。「三河国西加茂郡誌」でもその木数は一万八千六九一本で、矢作川の水運を利用して建築用材とされたことを記す。

川下村
かわしたむら

[現在地名]日田市川下 高井町たかいまち

北内河野きたうちがの村の北西方、三隈みくま川左岸に立地する。慶長一一年(一六〇六)当村一〇七石余が筑前福岡藩主黒田長政室領になったとされる(「豊西説話」「日田記」など)。正保郷帳に村名がみえ、田高八九石余・畑高一八石余で、石井いしい郷に属した。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では免二ツ七分四厘で、永荒四七石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高六一石余。

川下村
かわげむら

[現在地名]田原若草わかくさ一―二丁目

東は苅切かりきり村、北は原野を挟み大田原城下武家地、西は鹿島かしま川と富士山ふじやま丘陵。寛文四年(一六六四)の大田原藩領知目録に村名がみえる。幕末は旗本久世領(旧高旧領取調帳)。奥州街道大田原宿の定助郷を勤めた(「大田原宿宿方明細書上帳」大田原市教育委員会蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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