山田神社(読み)やまだじんじや

日本歴史地名大系 「山田神社」の解説

山田神社
やまだじんじや

[現在地名]彦根市宮田町

宮田みやた町集落の東の入口に鎮座する。祭神は猿田彦さるたびこ大神・誉田別ほんだわけ尊・多紀理毘売たきりびめ命・市杵島比売いちきしまひめ命・多岐都比売たきつひめ命。旧県社。境内社に仲哀ちゆうあい神社・皇后こうごう神社がある。創建年代はつまびらかでないが、「延喜式」神名帳の坂田さかた郡五座の一つ「山田ヤマタノ神社」に比定される。「新撰姓氏録」によると息長真人・坂田酒人真人・坂田宿禰は応神天皇の後裔で、山田宿禰もまたその一族である。「日本書紀」皇極天皇元年一二月一四日条に「息長山田公、日嗣を誄び奉る」とある。「特選神名牒」は、山田氏の一族がその祖先の応神天皇および三女神を祀ったとするが、当社では次のように伝える。

山田神社
やまだじんじや

[現在地名]山田町山田

山田川とその支流百原もばる川の合流点に鎮座する。旧村社。祭神は月夜見尊など四神。「三国名勝図会」に華舞はなまい六所権現社とみえ、「上中原村梶原村の間にあり」と記される。花舞とも記す。往古は霧島六所権現の一つで、祭神は瓊瓊杵尊・木花開耶姫・彦火火出見尊・豊玉姫・葺不合尊・玉依姫であったという(同書)。嘉慶三年(一三八九)二月二五日の山田華舞六所権現棟札(庄内地理志)によると、地頭島津幸久は「山田六所権現」の宝殿を造営している。元禄一一年(一六九八)の都城領内神社由緒調帳写(都城島津家文書)社名を花舞六所権現と記し、文禄(一五九二―九六)の初め近衛左大臣信輔(信尹)が薩摩配流の際に当社に一宿し、花舞の二字を記した扁額を残したのが社名の由来とする。

山田神社
やまだじんじや

[現在地名]彦根市野田山町

野田山のだやま出屋敷でやしきの山麓の傾斜地に南面して鎮座する。多賀たが大社(滋賀県多賀町)の摂社で、祭神は猿田彦さるたびこ大神。「新抄格勅符抄」に引く大同元年(八〇六)の牒に山田神とみえ、天平神護二年(七六六)に与えられた封戸五戸があった。「延喜式」神名帳には犬上いぬかみ郡七座の一つとしてあげられる。多賀大社神宮寺の不動院(天台宗)院主の「慈性日記」元和二年(一六一六)一〇月二九日条に「山門より覚林坊下向にて山田ノ社ノ遷宮ノため也」、同一二月一日条に「山田ノ社遷宮」とあり、多賀社境内に移された。

山田神社
やまだじんじや

[現在地名]佐久市大字常和 宮平

山田村の南南東にある。蛇石じやいし大明神とも宗像むなかた大明神とも称した。祭神は市杵嶋姫命・湍津姫命・田心姫命。

里伝によると、山田村はひとたび豪雨となると田子たこ川の氾濫に遭い苦しむことが多かった。このため宗像の三女神を祀って洪水の災害から逃れるとともに田圃の加護、耕水の便を願ったという。諏訪神は後に合祀したようである。この地の産神社である。永禄八年(一五六五)武田信玄による「諏方上下社祭祀再興次第」の諏方上宮祭礼退転帳(諏訪大社文書)に、正月一五日の「祭、佐久郡山田之郷よりつとむるのよし、露本帳候、雖然号山田之郷何方ニ候哉不知候間、断絶不及了簡」と記し諏訪大社とのかかわりが深い。

山田神社
やまだじんじや

[現在地名]観音寺市柞田町 中新田

祭神大己貴命・素盞嗚命・山田大郎女。旧村社。「延喜式」神名帳に載る苅田かりた郡の同名社に比定され、古代の苅田柞田くぬいた(和名抄)の神として創祀されたと伝える。古代―中世推移は不明だが、貞享四年(一六八七)拝殿が造営され、元禄八年(一六九五)には豊田とよた郡奉行河口久右衛門が木材を寄進して本殿改築、文久三年(一八六三)黒淵くろふち村庄屋秋山平右衛門・北岡きたおか村庄屋為右衛門らが本殿の屋根を葺替えている(観音寺市誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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