小牧村(読み)おまきむら

日本歴史地名大系 「小牧村」の解説

小牧村
おまきむら

[現在地名]庄川町小牧こまき

前山まえやま村の東、庄川西岸山腹にある。村名は庄川上流の大牧おおまき(現利賀村)に対する小牧で「おまき」とよぶが、関西電力が堰堤を小牧こまきダムと命名して以後、村名を「こまき」と混同されることも多い。元和五年(一六一九)の家高新帳に「小牧」とみえ、金屋組に属し役家数七。正保郷帳では高四五石余、畑方三町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四九石・免四ツ七歩、小物成は山役一三八匁・鮎川役九匁(三箇国高物成帳)

小牧村
こまきむら

[現在地名]上田市大字小牧

千曲川南岸で、小牧山麓にある。集落の東方で千曲川より取水した六ヶ村堰が小牧山麓を東より西に流れている。

東は尾野山おのやま村(現小県ちいさがた丸子まるこ町大字生田いくた)、西と南は諏訪形すわがた村、北は千曲川を隔てて踏入ふみいり村・ほり村と境する。なお現天神てんじん二丁目・三丁目などは、町名変更になるまで、大字小牧字城下しろした、字鴨池かもいけとよばれ、小牧の飛地であった。このことを「小牧村誌」(長野県町村誌)は、往古の村落は数ヵ所に散在していたが、千曲川の大洪水で、千曲川の北岸鴨池(上田城崖下にあった)の辺りの住居が流亡したため、現在の地に移ったと伝える。

小牧村
おまきむら

[現在地名]鞍手町小牧

猪倉いのくら村の南東、遠賀おんが川の中流左岸に位置し、村内を山田やまだ川・こも川が流れる。北は上木月かみきづき村、下大隈しもおおくま(現中間市)。村南部の伊予谷いよたにには牧跡がある(続風土記拾遺)。平坦な地形で運送の便はよいが、水難に悩まされた(地理全誌)。田圃志や「続風土記」は当村の枝郷としていま村・猪倉をあげるが、このうち猪倉村はのちに分村した。福岡藩の成立後は同藩領となり、元和九年(一六二三)支藩の東蓮寺藩が成立すると同藩領となった。

小牧村
こまきむら

[現在地名]郷ノ浦町小牧東触こまきひがしふれ小牧西触こまきにしふれ

黒崎くろさき村の南にある同村枝郷。北西の半島状の小牧崎は放牧地で、牧大明神が鎮座、当初は放牧が行われていたとみられる。建久年間(一一九〇―九九)松浦久の孫の糾(左近将監)が小牧・肥前寒水井村(寒水か、現佐賀県中原町か)・筑前吉井中村(現福岡県二丈町か)などに地頭職をもっていたとされるが、確認できない。この糾はのちの中村氏という。延慶二年(一三〇九)六月一八日の僧重栄避状(中村文書)に壱岐島小牧とみえ、壱岐小牧用作分田二反・大江用作分畠一ヵ所・在家一ヵ所(権大宮司居園)が筑前国の怡土いと(現福岡県前原市)の一部とともに重栄から沙犬御前に譲られている。

小牧村
こまきむら

[現在地名]福知山市字小牧

福知山城下の西方、由良川の支流和久わく川の最上流の谷にある。東は北山きたやま村、南は畑中はたけなか村、北はユズリ峠(二〇〇メートル)千原ちはら(現天田郡夜久野町)に接する。西は烏帽子えぼし山の稜線をもって山垣やまがい(現兵庫県氷上郡青垣町)に接する。

ユズリ峠は、但馬方面から夜久やく(現天田郡夜久野町)を経て福知山へ通ずる近道として、往来が多かった。この峠を南へ下りた所に、枝村下戸さげとがある。「丹波志」に、

<資料は省略されています>

とある。同書は村名の肩書に「古豊富村」と記すが、中世当地が豊富庄に属し、近世初期にも豊富村に含まれていたことによる。

小牧村
こまぎむら

[現在地名]酒田市小牧

大野新田おおのしんでん村の南東、最上川下流右岸にあり、最上街道が通る。小真木村とも記した。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二三石余。同九年には出目九三石余で高一一六石余、家数九(「山楯組元和以来色々調」飽海郡誌)。寛永一九年(一六四二)の田五町六反余・分米六六石余、畑八町四反余・分米六一石余(「検地帳」同書)

小牧村
こまきむら

[現在地名]四日市市小牧町

朝明あさけ川の南にあり、西は中野なかの村。寛政年間(一七八九―一八〇一)頃の朝明・三重郡絵図(豊田次男氏蔵)には朝明川の北岸に「北小牧」の地名がみえる。中世は保々ほぼ郷に含まれた。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領、天保一三年(一八四二)以降幕府領、安政元年(一八五四)以降再び忍藩領と変遷した。

小牧村
こまきむら

[現在地名]麻生町小牧

くら川の左岸にあり、東は新宮しんぐう村。中世は小牧郷と称し、嘉元大田文および康永二年(一三四三)正月九日の鹿島神宮領田数注文案(鹿島神宮文書)に「小牧五十八丁一反半」とある。小牧郷は内小牧うちこまき村と外小牧そとこまき村に分れ、ともに加納かのう十二郷内にあったという(新編常陸国誌)。観応三年(一三五二)八月、足利尊氏は武田高信らに命じて倉河くらかわ郷・小牧郷内などを下河辺行景に交付させたが(「足利尊氏御教書」鹿島神宮文書)、文和二年(一三五三)の武田高信請文・同三年の益戸国行請文(同文書)などによれば、小牧郷内は小牧弥十郎が押領し、交付不能と高信らは上申している。また貞治四年(一三六五)には将軍足利義詮は大掾高幹に命じて小高直幹の小牧村鹿島神宮社領の押領を停止している(「足利義詮御教書案」同文書)

小牧村
おまきむら

[現在地名]中島町小牧

七尾湾の西海岸に位置し、海を隔てて東に能登島(現能登島町)と相対する。内浦街道沿いの村で、馬継所であった。南は同街道で中島村に続く。貞応三年(一二二四)一〇月一日の熊来庄立券文写(尾沢文書)に「長前」がみえ、田地のほか、定在家として貞重・末包・助国・末重・友清・国元・重安・利永・延景・包弘・小在家弘重・小在家国末の一二宇、塩釜一口が載る。

小牧村
こまきむら

[現在地名]燕市小牧

中川なかがわ村の南に連なり、東をなかくち川が北流する。元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)に高九九石七斗余とある。同九年幕府領。正保国絵図は一八六石余。慶安二年(一六四九)村上藩領となり、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳は一七九石余。享保一三年(一七二八)の郷村高辻帳は三九五石五斗余。宝暦六年(一七五六)の燕組村々高反別之覚(小柳家文書)によれば村高三九六石六斗(反別四二町六反)、本田一九二石四斗、うち田一四七石六斗(一一町一反、うち二町四反は高崎領佐渡村分)・畑四四石七斗(一〇町)、見取新田八八石六斗、うち田七四石八斗(五町九反)・畑一三石八斗(三町六反)、新田一一二石二斗、うち田九九石七斗(八町二反)・畑一二石五斗(三町三反)、亥明新畑一石一斗(三反)、野手二石一斗。

小牧村
こまきむら

[現在地名]小牧市小牧

村の西北に小牧山がある。天保の村絵図をみると、小牧山の東を木津こつつ用水(合瀬川)が南北に流れ、この用水を挟んで、東側には小牧宿、西側には元小牧もとこまきがある。「徇行記」によると、概高五七七石四斗余、田三町五反三畝・畑六九町四反四畝。寛文一一年(一六七一)の戸数二五五、人数一千四八〇(寛文覚書)

永禄六年(一五六三)織田信長清須きよす(現西春日井郡清洲町)から小牧山に居城を移すとともに、小牧山の南部一帯が城下町として整備され、小牧は江戸時代初期までは名古屋から中山道に出る小牧街道の宿駅の一つであった。

小牧村
こまきむら

[現在地名]指宿市小牧

岩本いわもと村の北西に位置し、北は喜入きいれ生見ぬくみ(現喜入町)、北東は海に臨む。集落は生見村境の海岸付近に散在する。田畑に乏しく牧畜が中心で、地名の由来は放牧場にちなむという(指宿市誌)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高三八四石余。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高三八一石余。

小牧村
こまきむら

[現在地名]吉良町小牧

矢作古やはぎふる川と矢崎やさき川とに挟まれた沖積地に発達した集落よりなる。北は木田きだ村に接し、東は矢崎川をもって津平つのひら村と境し、南は中野なかの村、西は横須賀よこすか村に接する。元和二年(一六一六)松平右衛門大夫正綱領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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