小佐郷(読み)おさごう

日本歴史地名大系 「小佐郷」の解説

小佐郷
おさごう

中世の郷で、国衙領。郷名は古代の養父郡遠佐おさ(和名抄)に由来し、小佐郷は円山まるやま川支流の小佐川流域一帯に比定される。「但馬考」は八鹿・九鹿くろく・小佐・石原いしはら火畑ひばたの五村を小佐庄としている。小佐郷の初見は承久三年(一二二一)八月二五日付の関東下知状(但馬伊達文書)で、本地頭為安の譲に任せて「小佐郷地頭職」が尼常陸局に安堵されている。次いで建長三年(一二五一)一一月、尼常陸局は当郷三分二地頭職を娘の伊達尼に譲って翌月幕府から安堵されている(同年一二月一二日付「将軍家政所下文」同文書)。伊達尼は名を妙法といい、伊達修理亮時綱室で、当郷地頭職は但馬伊達氏の本領であった。為安と常陸局についてはほかに史料を得ないが、関東の御家人であることは間違いなく、源頼朝の奥州合戦に従軍して陸奥伊達だて郡を与えられ伊達氏の始祖となった朝宗の長男で、伊達氏の本領を継いだ伊佐為宗の一族かもしれない。初め小佐郷地頭職であったものが伊達尼への譲与の際には三分の二と三分の一に分割されていたが、さらに恒富名が分割された。三分一地頭職を継いだのは北条義時の曾孫名越尾張守公時であるが、公時はあるいは尼常陸局の縁者なのかもしれない。その公時と安原兵衛尉高長ならびに伊達尼妙法が恒富名と二分方地頭職を相論したが、弘安二年(一二七九)結局公時は避状を出し、恒富名と二分方地頭職は安原高長と伊達尼に安堵されている(以上、弘安二年一〇月一三日「関東下知状」同文書)。次いで同五年六月一四日伊達尼は孫の五郎七郎資朝らに譲状(現存しない)を書いたが(同九年五月三日「関東下知状」同文書)、その際二分方はさらに均分に二分割されたようである。

弘安八年の但馬国太田文の記載は、以上の地頭職の分割によって、複雑なものとなっている。まず「小佐郷 百十七町七反二百五拾二分」とみえ、「地頭四人」「加恒富并新赤崎押領定云々」の注記があり、内訳は流失河成不作畠成一〇町八反一九二歩、神田三町八反三〇歩、人給九町、恒富三二町一一九歩、定田五六町九反一〇九歩と記される。定田は一分方と二分方に分れ、一分方は一八町九反大三二歩で地頭は尾張入道(名越公時)、二分方三七町九反半一七歩は一七町九反半三〇歩ずつに二方に分け、一方の地頭は伊達五郎三郎(宗朝)、一方の地頭は阿波孫五郎である。次いで恒富方三二町四反一一九歩と記され、地頭安原兵衛入道(高長)および「加朝倉押領二反定」の注記があり、恒富方の内訳は流失七反二四〇歩、不作一町、畠成一町二反一九二歩、人給四町四反三〇〇歩、定田二三町九反三二七歩と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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