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尊良親王(読み)タカナガシンノウ

デジタル大辞泉 「尊良親王」の意味・読み・例文・類語

たかなが‐しんのう〔‐シンワウ〕【尊良親王】

[1311~1337]後醍醐天皇の第2皇子。名は「たかよし」とも。元弘の変土佐に流された。足利尊氏あしかがたかうじ離反には新田義貞とともに戦い越前金ヶ崎城を守ったが、落城し、自害した。

たかよし‐しんのう〔‐シンワウ〕【尊良親王】

たかながしんのう(尊良親王)

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精選版 日本国語大辞典 「尊良親王」の意味・読み・例文・類語

たかよし‐しんのう‥シンワウ【尊良親王】

  1. 醍醐天皇第一皇子。「たかなが」とも読む。母は藤原為子。元弘の変のとき土佐国(高知県)に流される。建武新政府の成立によって帰京し、東国管領として新田義貞とともに足利尊氏と戦ったが敗れる。延元元年(一三三六)皇太子恒良親王を助けて越前国福井県)の金崎(かねがさき)城に拠ったが、足利軍のために落城、自害した。建武四=延元二年(一三三七)没。

たかなが‐しんのう‥シンワウ【尊良親王】

  1. たかよししんのう(尊良親王)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尊良親王」の意味・わかりやすい解説

尊良親王(たかながしんのう)
たかながしんのう
(1311―1337)

醍醐(ごだいご)天皇の第二皇子。「たかよし」とも読まれる。母は権大納言(ごんだいなごん)藤原為世(ためよ)の女(むすめ)為子。一の宮と記した系図史書もある。1326年(嘉暦1)元服、中務卿(なかつかさきょう)に任ぜられ三品(さんぼん)に叙せられた。31年(元弘1)父天皇の笠置(かさぎ)潜幸に従ったが、河内(かわち)で幕府方に捕らえられ、32年土佐国(高知県)に流された。建武(けんむ)新政後帰洛(きらく)したが、35年(建武2)足利尊氏(あしかがたかうじ)が反すると、追討上(ついとうじょう)将軍として新田義貞(にったよしさだ)らと東征に赴いたが、利あらずいったん京都に帰還、翌年ふたたび皇太子恒貞(つねさだ)親王とともに新田義貞軍を率い、北陸に向かい越前金ヶ崎(えちぜんかながさき)城に入ったが、寒気と食糧難のため37年3月6日落城、同日親王も自害して果てた。27歳。墓は京都市左京区南禅寺下河原町にある。

[飯倉晴武]


尊良親王(たかよししんのう)
たかよししんのう

尊良親王

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尊良親王」の意味・わかりやすい解説

尊良親王
たかながしんのう

[生]応長1(1311).京都
[没]延元2=建武4(1337).3.6. 敦賀
後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘為子。中務卿。「たかよし」とも読む。元弘の乱が起り,父天皇に従って笠置に赴き,次いで赤坂城に入った。戦い敗れて鎌倉幕府に捕えられ,土佐に配流されたが,建武政府 (→建武中興 ) が成立し,京に帰った。建武2 (1335) 年足利尊氏が挙兵すると,天皇は親王を上将軍として新田義貞とともに追討させた。次いで尊氏が西国から京都に迫ると,叡山に難を避けた天皇は,尊氏の請いをいれて還幸するにあたり,義貞に旨を含めて,親王および皇太子恒良親王を奉じて北国に赴かせ,越前金崎城に拠らせたが,足利軍のため落城,親王は自害。墓は京都市左京区南禅寺下河原町にある。

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改訂新版 世界大百科事典 「尊良親王」の意味・わかりやすい解説

尊良親王 (たかよししんのう)
生没年:1311-37(応長1-延元2・建武4)

後醍醐天皇の皇子。〈たかなが〉ともよむ。母は歌道家藤原為世の女為子。元弘の乱で1332年(元弘2)3月土佐へ流されたが九州へ渡り,33年肥前の江串氏に擁されて挙兵。鎮西探題の陥落後大宰府に入り,8月帰洛。35年(建武2)11月には鎌倉に反した足利尊氏討伐の軍を進めた。36年(延元1・建武3)10月新田義貞らとともに越前に赴き金崎城に拠って北陸経営に尽力したが,翌年3月落城の際自害。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尊良親王」の解説

尊良親王 たかよししんのう

1311-1337 鎌倉-南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
応長元年生まれ。元弘(げんこう)の乱で土佐(高知県)に流されるが,正慶(しょうきょう)2=元弘3年京都にもどる。建武(けんむ)2年足利尊氏とたたかって敗れ,恒良(つねよし)親王や新田義貞とともに越前(えちぜん)(福井県)金崎城にはいったが,高師泰(こうの-もろやす)らに攻められ,建武4=延元2年3月6日自害した。27歳。名は「たかなが」ともよむ。

尊良親王 たかながしんのう

たかよししんのう

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世界大百科事典(旧版)内の尊良親王の言及

【尊良親王】より

…後醍醐天皇の皇子。〈たかなが〉ともよむ。母は歌道家藤原為世の女為子。元弘の乱で1332年(元弘2)3月土佐へ流されたが九州へ渡り,33年肥前の江串氏に擁されて挙兵。鎮西探題の陥落後大宰府に入り,8月帰洛。35年(建武2)11月には鎌倉に反した足利尊氏討伐の軍を進めた。36年(延元1∥建武3)10月新田義貞らとともに越前に赴き金崎城に拠って北陸経営に尽力したが,翌年3月落城の際自害。【森 茂暁】…

【恒良親王】より

…公家一統の親政により建武の中興をはかる後醍醐天皇は,両統迭立を否定して1334年(建武1)恒良親王を皇太子に立てた。しかし翌年足利尊氏らの離反で建武体制が崩壊したばかりか,尊氏らの反攻にあって天皇・皇太子らは苦境に立ち,36年(延元1∥建武3)皇太子は兄尊良親王(1311‐37)とともに新田義貞に擁されて越前金崎城に入城して北陸経営に当たった。だがその城も37年足利勢に攻められて兄親王は自害し,恒良親王は捕らえられて京都に護送され,1年後の38年4月没した。…

【金崎宮】より

…旧官幣中社。後醍醐天皇の第1皇子尊良(たかよし)親王と第6皇子恒良(つねよし)親王をまつる。新田義貞に奉ぜられた両親王は,1337年(延元2∥建武4),金崎城によって足利方と戦って敗れ,尊良親王は自害,城を逃れた恒良親王も翌年京都で毒死した。…

※「尊良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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