寺池村(読み)てらいけむら

日本歴史地名大系 「寺池村」の解説

寺池村
てらいけむら

[現在地名]登米町寺池

登米郡南部の北上川西岸に位置する。北方たて山と南方草飼くさげ山に挟まれ、西方にのみ開ける。東は北上川、西は小島こじま渋江しぶえ、南は鴇波ときなみ境沢さかいさわ(現豊里町)、北は日野渡ひのと銅谷どうやに接する。東西一三町・南北三六町とある(登米藩史稿)。地名は、「安永風土記」によれば、伊達「式部様御居館続御林之内ニ」かつてあった真珠院明了寺境内の池に由来するといい、安永三年(一七七四)頃も小池が残っていた。天文一七年(一五四八)千厩小太郎に宛てた留守景宗書状(伊達正統世次考)に「今春向寺池」とある。また永禄二年(一五五九)三月七日の熊谷彦十郎宛の葛西晴信知行状(「寺崎文集」南部叢書)に「登米郡寺池村之内三千苅宛行」とある。鎌倉末期から室町期にかけて、「余目記録」などにみえる登米氏の支配下にあったと思われる。戦国期には葛西氏の支配下にあり、天文五年以後寺池に葛西氏が居城し、天正一八年(一五九〇)葛西氏滅亡後、木村氏の支配下に入った。

近世を通じ、一門登米伊達氏(本姓白石氏)の所領となり、その居館が置かれた。慶長六年(一六〇一)一月一〇日、伊達政宗は仙台城下を起点として、岩出山いわでやま(現玉造郡岩出山町)を経て登米に至る各所に伝馬五疋を出すよう指示した。この登米は寺池をさし、常設の伝馬と思われる(「伊達政宗伝馬黒印状」伊達家文書)。慶長九年白石宗直が水沢みずさわ(現岩手県水沢市)から移封し、城下町の建設に着手した。商家に畑地二貫七〇〇文を宅地として付し、各戸に御振地として田六畝六歩を与え、租税賦役を免じた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報