宮沢村(読み)みやざわむら

日本歴史地名大系 「宮沢村」の解説

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]古川市宮沢

北は丘陵地帯、東南部は大崎おおさき平野に連なる水田地帯、化女けしよう沼の西約二キロにある。栗原郡に属し、北は雨生沢あみようざわ村、東は川熊かわくま村、南は桜目さくらのめ村、西は小林おばやし村に接する。長者原ちようじやはら遺跡は縄文時代の遺跡、新田町しんでんまち遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての遺跡で、住居跡も発見されている。国指定史跡の宮沢遺跡は古代の壮大な城柵・官衙跡で、「続日本紀」宝亀一一年(七八〇)二月一一日条にみえるかくべつ城に比定する説もある。「吾妻鏡」建暦元年(一二一一)四月二日条に「陸奥国長岡郡小林新熊野社壇堂舎等」とある。この地域は古代中世は長岡ながおか郡に属し、新熊野社は現在の熊野神社といわれる。宮沢村はかつては小林村に含まれていたが、その後分村し、新熊野社の社地があったため村名が生じたという(栗原郡旧地考)

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]榛名町宮沢

群馬郡に属し、下室田しもむろだ村の東にある。谷津やつ川の上・中流域に位置し、南は神戸ごうど村、東は十文字じゆうもんじ村・三子沢みつござわ村、北は善地ぜんじ(現箕郷町)十文字・三子沢両村の東に飛地がある。承応三年(一六五四)の安中領宮沢村検地帳(清水文書)では総計六〇町五反余。寛文郷帳では田方二四石余・畑方二四〇石余、三河中島藩領。享和三年(一八〇三)の領郷庄御書上帳(同文書)では高三一三石余、うち二〇六石余が安中藩領、一〇七石余が旗本杉山領。

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]栃尾市宮沢

刈谷田かりやだ川のなだらかな河岸段丘に展開する村で、北側の左岸は天下島あまがしま村、右岸はたいら村、東側右岸は菅畠すがばたけ村。南にはいずみ村が続き、背後の西側は標高二〇〇メートルほどの山並の分水嶺荷頃にごろ村と隣接する。川筋から荷頃村に向かって山深く入込んだ細長い形状の村。泉村からの瑞麟寺ずいりんじ江が水田を潤す。集落は当初川東のごう(濠)之脇のわきにあったと伝え、平にあったという守門すもん神社境内に連なる沢(濠)付近に作られた集落をさしてつけられた村名と考えられる。しかし現在では沢も濠も地滑りで埋まり、守門神社の跡さえない。慶長二年(一五九七)一二月一九日の上杉氏知行書出(渡辺謙一郎氏蔵)に、守門神社領一〇〇石のうち「一石者、但畠、宮沢村ニ有之」とみえる。

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]甲西町宮沢

南北二地区に分れる大師だいし村に挟まれて所在し、西はばらざわ村、東は戸田とだ村。天正一〇年(一五八二)一二月七日、米倉信継は徳川家康より本給を安堵された。そのなかに「宮沢内三貫文」がみえる(「徳川家康印判状」米倉文書)。同一八年正月一四日付の伊奈忠次寺領証文(深向院文書)によると、「西郡筋宮沢村新光(深向)院領」として「宮沢郷内」に二三俵一斗六升の地があった。同二〇年二月一一日に加藤光泰が寺領および山林を寄進した時には、宛名は「宮沢深向院」となっている(「加藤光泰印判状」同文書)

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]瀬谷区宮沢町・南台みなみだい一―二丁目

東は阿久和あくわ村、西から北にかけて瀬谷村、北は瀬谷野せやの新田、南は和泉いずみ(現戸塚区)に接する。東・西・北の三面に田圃が開け、南に保土ほど道が通り、北には瀬谷村から流れる宮沢堀が和泉村に流れる。

正保国絵図に「宮沢村」とある。徳川氏入国の後、上矢部かみやべ(現戸塚区)石川重政の領地とした時、村高の不足を補うため当地を添えて渡し、やがて上矢部村の村民数人をここに移し開墾したという。

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]昭島市宮沢町一―三丁目・宮沢町・朝日町あさひちよう二丁目・同四丁目・中神町なかがみちよう一―三丁目・上川原町じようがわらちよう一丁目・武蔵野むさしの二―三丁目・つつじが丘つつじがおか三丁目・昭和町しようわちよう一丁目・同三―四丁目

大神おおがみ村・上川原村の東、多摩川北岸にある。村名の由来は鎮守諏訪社の社地や阿弥陀寺境内から清泉が湧出しており、宮社の沼沢の意味であるという(風土記稿)。寛永一四年(一六三七)名寄帳(小町家文書)が残る。

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]三島町宮沢

現町域の北東端に位置する。くろ川左岸の沖積地と接する丘陵東麓に沿って南西から北東に家並が延びる。東は瓜生うりゆう、西は逆谷さかしだに、北は槙原まきはら(現与板町)、南は気比きいみやの各村と接する。気比神社社記(八田国雄氏蔵)によれば、八世紀頃までにのちの吉河よしかわ庄内に一二の屯倉があったと伝え、その一つの「大津」が当村か槙原村付近という(三島町史)大津おおつは年未詳一〇月四日の足利尊氏御教書写(本郷文書)に「吉川庄内大津」とある。元和六年(一六二〇)長岡藩領となってのち与板藩領・幕府代官鈴木八右衛門・長谷川庄兵衛支配地・与板藩領、文政三年(一八二〇)長岡藩領に復し幕末に至る。

宮沢村
みやさわむら

[現在地名]本荘市石沢いしざわ 宮沢

東に日住ひずみ山、南北に丘陵を負い、西に平地がひらける。東南は日住山嶺でたきさわ村と境し、東北は南の股みなみのまた村・万願寺まんがんじ村と、西北は雪車町そりまち村と接する。

近世には石沢郷に属し(出羽国風土略記)、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四一石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳に四〇石二斗八升七合とある。天保郷帳では滝ノ沢村に包括されており、天保六年(一八三五)の石沢郷百姓水呑名取帳(石沢郷土誌)に一五名の水呑百姓の名がみえる。

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]伊南村宮沢

浜野はまの村の北、北流する伊南川に削られた左岸の崖上にあり、対岸は白沢しらさわ村。「異本塔寺長帳」によれば弘安二年(一二七九)に河原田氏の一族杉岸景信が杉岸村に「一ノ宮板鉾大明神」を祀り村名を宮沢村と改めたとあり、「新編会津風土記」には「村北に一宮神社あり、村名これに因る」と記される。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「宮沢 九十二石八斗八升」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免三ツ八分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)によれば高一二九石余、免三ツ八分で年貢は金納。

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]飯田市宮沢

現飯田市の南東部の山間に位置。正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻に村名の記載がないことから、それ以後に石林いしばやし村・尾林おばやし村の一部が分村して成立したと推測される。明暦三年(一六五七)以降幕府領に属したが、天保一四年(一八四三)からは飯田藩領となった。弘化三年(一八四六)白河藩阿部氏領となり、慶応元年(一八六五)には幕府領飯田藩預りとなった。

村高は元禄一五年(一七〇二)が五一石余(信濃国郷帳)

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]飯能市宮沢

中居なかい村の北に位置し、東は小久保こくぼ村。村内を相州と上州を結ぶ街道が通り、小名滝沢たきざわにはさむさの峠があった(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高は田方八一石余・畑方八石、幕府領。寛文八年(一六六八)検地があった(風土記稿)。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と常陸下館藩黒田氏領。「風土記稿」によると化政期には上総久留里藩黒田氏領と旗本松井・雨宮領の三給。

宮沢村
みやざわむら

[現在地名]遠野市土渕町飯豊つちぶちちよういいどよ

さるいし川支流の五日市いつかいち川上流に位置し、東は飯豊村、北は柏崎かしわざき村・土淵つちぶち村、南・西は糠前ねかまえ村。土淵村から当村を経て南の青笹あおざさ村に向かう道が通じていた。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、宮沢村の高三三石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android