安楽行院跡(読み)あんらくぎよういんあと

日本歴史地名大系 「安楽行院跡」の解説

安楽行院跡
あんらくぎよういんあと

[現在地名]伏見区深草坊町

明治二七年(一八九四)廃寺になり、跡地深草ふかくさ十二帝陵として宮内庁管理下に置かれる。陵内に安楽行院法華堂といわれた慶応年間(一八六五―六八)建立の法華堂一宇が現存する。当院は持明院殿の御堂安楽光あんらくこう院が移建されたものとされるが明確にしがたい。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔安楽光院〕

「安楽光院行事」によると、藤原道長の曾孫基頼が康和年中(一〇九九―一一〇四)邸内に持仏堂を建立、持明院と号した。天治年中(一一二四―二六)基頼の子通基がここに九品阿弥陀仏安置、のち安楽光院と改称。持明院の名を一家の称号とした。次いで通基の子基家の女陳子(北白河院)を妃とした守貞親王(後高倉院)は、持明院邸に住することが多く、また陳子所生の後堀河天皇もこの邸を仙洞とした。その後も後嵯峨・後深草・伏見天皇などが仙洞とすることが多かったことから、この皇統を持明院統と称した。持明院統の寺として安楽光院では祖皇の国忌・御願などがしばしば修された。文和二年(一三五三)二月四日持明院殿が炎上、安楽光院は残ったが破損が激しく、本尊も盗まれるなどして退転。しかし光厳・光明天皇生母広義門院の令旨をもって延文年中(一三五六―六一)律院として再興、代々根本御願などは当寺において修されることになった。

「愚管記」貞治七年(一三六八)二月一五日条に「安楽光院住寺僧曇浄洞院故前内府息(中略)伏見院宸筆往生講式同取出之令拝見了、故法皇有御施入当院(中略)、安楽光院者故法皇御時観応比歟、後嵯峨御八講於当院被行(中略)至今年已及十七八年歟、今日見之持明院殿広義門院御所之跡荒廃之躰頗礎石不相残世事変化以之可思云々」とあり、持明院殿のほうは荒廃して跡もとどめない状態であったようだが、後光厳院の出家に、戒師泉涌せんにゆう(現京都市東山区)長老聖皐とともに安楽光院長老洞院実信の叔父曇浄(見月)が剃師を務めている(花営三代記・皇年代略記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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