深草(読み)フカクサ

デジタル大辞泉 「深草」の意味・読み・例文・類語

ふかくさ【深草】

京都市伏見区北部の地名。深草十二帝陵仁明天皇陵がある。平安時代別荘地。[歌枕]
「年をへて住みこし里を出でていなばいとど―野とやなりなむ」〈伊勢・一二三〉

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「深草」の意味・読み・例文・類語

ふかくさ【深草】

京都市伏見区北部の地名。東山連峰の南端稲荷山南西側のふもとにある。古くは秦氏一族の居住地であったが、のちに貴族の別荘地となる。豊臣秀吉の伏見城築城後、京都と伏見を結ぶ街道沿いに伏見稲荷大社門前町として発達した。仁明天皇深草陵、深草北陵(深草十二帝陵)がある。鶉(うずら)、月の名所として知られた。
[語誌]皇室・権門の陵墓があったところから、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け〈上野岑雄〉」〔古今‐哀傷〕などともうたわれたが、「年を経て住みこし里を出でて往なばいとど深草野とやなりなむ」〔古今‐雑下〕「野とならば鶉と鳴きて年は経むかりにだにやは君が来ざらむ」〔同〕や、この贈答歌を本歌とした「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなりふか草の里〈藤原俊成〉」〔千載‐秋上〕によって、草深くさびしい、鶉の鳴く里というイメージで詠まれた。「新古今」以降では月光・雪・露・砧の音なども配されるが、さびしさのつきまとう里としてのイメージは踏襲された。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「深草」の意味・わかりやすい解説

深草 (ふかくさ)

京都市伏見区の北部一帯の地名。東山山系の西麓部にあたる。低地には弥生時代の木器を出した深草遺跡があり,早くから開発の手が及んでいた。深草の名は《日本書紀》欽明即位前紀にみえ,秦大津父(はたのおおつち)説話からもうかがえるように秦氏が蟠踞(ばんきよ)していた。伏見稲荷大社も秦氏の創立である。また深草屯倉(みやけ)があり,交通の要地でもあった。平安時代には京都の別荘地で鶉(うずら)や月の名所として歌枕となった。また《類聚国史》延暦11年(792)8月条によると深草が葬地として使用されていたことがわかる。これは多くの古墳の存在や,《延喜式》諸陵寮式に〈深草陵,後深草陵,深草墓〉が記されていることによって,また792年埋葬が禁止された後も葬地であったことなどによって確認される。こうした地にふさわしく,古代より中世にかけて深草寺,おうせん堂廃寺,龕前堂廃寺,極楽寺,嘉祥寺,貞観寺,安楽行院など多くの寺院が営まれていたが,いずれも廃寺で所在地も不詳である。
執筆者: 中世の深草は皇室御領となり,《師守記》貞治1年(1362)10月1日条,同月9日条に〈深草供御人〉の文言がみえる。彼らは室町時代には木幡(宇治市)とともに竹供御人として活躍し,特産物の竹を禁裏へ納付するとともに商品として市中に売りさばいていた。1481年(文明13)5月にはその販売権をめぐって両者が争論を起こしているが,《山科家礼記》5月25日条に〈深草は久しき供御人〉という言葉がみられる。

 深草は古代末期より畿内を中心に行われていた土器作(かわらけつくり)の里としても有名である。土器は釉(うわぐすり)をかけない素焼の焼物で主として神事に用いられ,1168年(仁安3)11月の禁裏大嘗会の点地のときの行事にも深草土器を使用している(《兵範記》)。《醍醐寺雑事記》によると1179年(治承3)ころ深草には醍醐寺に従属する7名の名田がみられ,彼らは名主として生活しながら土器の生産を行っていたらしく,おのおのが一定の地子として反別4斗代と毎月360個の土器を醍醐寺へ貢納することが義務づけられていた。《言継卿記》天文1年(1532)1月7日条によっても,名主を中心に手工的生産が行われていたことが明らかで,彼らの一部が嵯峨に移住して土器生産を始めたのが《庭訓往来》にみえる嵯峨の土器と伝えられている。伏見築城に際し,播磨・河内から技術者が入来してその技術も進歩すると同時に,瓦作りも行われるようになり近世期まで継続した。正徳年間(1711-16)には150軒もの家が土器生産に従事しており,このほか瓦,伏見人形も作っていたことが《京都御役所向大概覚書》によって知られ,瓦町の町名は今も残っている。このほか深草郷内を流れる鴨川,七瀬川は,醍醐三宝院の支配であったことが《醍醐寺文書》(貞治3年(1364)9月20日付請文)によってわかる。また1420年(応永27)6月に隣郷伏見庄の農民と水争いを起こし合戦にまで及んでいる(《看聞日記》)。
執筆者:

深草は中央南北に大和街道(奈良街道)が通じているので詠作が多く,皇室や権門の葬場でもあったので哀傷の作も多い。《千載集》巻四の〈夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里〉は藤原俊成が自作の最高の作と人々に語った(《無名抄》)歌として著名である。深草少将(伏見区西桝屋町の欣浄寺(ごんじようじ)がその宅址と伝える)が山科小野の随心院にあった小野小町の宅へ百夜(ももよ)通った伝説があり,謡曲《通小町(かよいこまち)》《卒都婆小町》《墨染桜》などに劇化されている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「深草」の意味・わかりやすい解説

深草
ふかくさ

京都市伏見(ふしみ)区の北部、稲荷(いなり)山西麓(ろく)から鴨(かも)川左岸にかけての地区。旧深草町。稲荷山西方の扇状地上の深草遺跡は弥生(やよい)時代初期の農耕集落遺跡。稲荷山には、秦(はた)氏によって祀(まつ)られたのが始まりといわれる伏見稲荷大社がある。風光のよいところから平安時代には貴紳の別業が営まれ、また歌枕(うたまくら)としても知られ、『古今集』『伊勢(いせ)物語』などに地名がみえる。江戸時代には稲荷大社の門前町を除いて農村が多かったが、瓦(かわら)や伏見人形を産する窯業も盛んに行われた。1908年(明治41)第16師団が置かれ、第二次世界大戦後、軍事施設の跡地は京都教育大学、龍谷(りゅうこく)大学などの敷地に転用された。JR奈良線、京阪電鉄本線が通じる。

[織田武雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「深草」の意味・わかりやすい解説

深草
ふかくさ

京都市伏見区北西部の一地区。稲荷山 (233m) の西麓一帯をさし,竹田街道付近までを含む。京都から伏見へ向う奈良街道沿いに位置し,縄文土器が出土。平安時代には藤原氏の荘園があった。かつては多くの軍事施設がおかれていたが,第2次世界大戦後,軍用地は京都教育大学,龍谷大学などの学校用地や住宅用地に転用された。史跡荷田春満 (かだのあずままろ) 旧宅がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

普及版 字通 「深草」の読み・字形・画数・意味

【深草】しんそう

草深い。

字通「深」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android