安井息軒旧宅(読み)やすいそつけんきゆうたく

日本歴史地名大系 「安井息軒旧宅」の解説

安井息軒旧宅
やすいそつけんきゆうたく

[現在地名]清武町加納 上中野

日向国の儒者・経世家安井息軒の旧宅。寛政一一年(一七九九)の誕生から天保二年(一八三一)飫肥おび城下(現日南市)転居するまでの居宅。国指定史跡。旧宅のある上中野かみなかのは清武川の流れを南に控えた標高約七〇メートルの丘陵地で、中世から近世にかけてこの辺りの中核をなしていた。上中野には清武地頭所を中心として飫肥藩家臣団約三〇軒、下中野には寺院や墓地を含めて三十数軒、一段下がった現宮崎女子短期大学東方の平坦地には中野八幡社を中心に二〇軒ほどの武家と町人の屋敷が混在していたようである。旧宅はこの台地の西方にあり、旧地頭所から清武城跡へ向かう往還を西へ約一〇〇メートル進んだ南側に位置する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「安井息軒旧宅」の解説

やすいそくけんきゅうたく【安井息軒旧宅】


宮崎県宮崎市清武町にある邸宅跡。市の南西にある台地上に所在する幕末の儒学者安井息軒の旧宅。息軒の黎明期を知るうえで重要なことから、1979年(昭和54)に国の史跡に指定された。息軒は1799年(寛政11)に生まれ、21歳で大坂の篠崎小竹(しのざきしょうちく)の門下生となり、26歳で江戸に出て昌平坂学問所に入る。29歳で帰郷し、清武の郷学・明教堂の子弟の教育に尽力。1831年(天保2)、藩校・振徳堂(しんとくどう)が完成すると、父滄洲(そうしゅう)はその総裁に、息軒は助教に任ぜられ、一家は飫肥(おび)城下に転居。後年は江戸に移住し、三計塾(さんけいじゅく)を開き、幕府儒官として昌平坂学問所の教授にも任命され、『左伝輯釈(さでんしゅうしゃく)』『海防私議(かいぼうしぎ)』など多くの著書を残した。門下生から小村寿太郎、谷干城(たにたてき)らの逸材を輩出し、1876年(明治9)、78歳で生涯を閉じた。宅跡の南には双石山・荒平山などが連なり、西には韓国岳などの山脈が遠望される。旧宅は飫肥転居後に人手に渡り、建物も他所に移築されていたが、保存のために1923年(大正12)、旧宅地が買い戻された。1994年(平成6)に復元された旧宅は、木造茅葺平屋建て、建坪62.7m2内部は2間半の式台玄関、8畳の床の間、10畳の間、4畳半の2間と台所が設けられ、旧宅跡は半九(はんきゅう)公園となっている。JR日豊本線清武駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報