孤雲懐奘(読み)コウンエジョウ

デジタル大辞泉 「孤雲懐奘」の意味・読み・例文・類語

こうん‐えじょう〔‐ヱジヤウ〕【孤雲懐奘】

[1198~1280]鎌倉中期の曹洞宗の僧。京都の人。比叡山の僧であったが、のち、道元に師事し、永平寺第2世となった。著「正法眼蔵随聞記」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「孤雲懐奘」の意味・わかりやすい解説

孤雲懐奘
こうんえじょう
(1198―1280)

鎌倉初期の曹洞(そうとう)宗の僧。孤雲は庵居(あんきょ)の称。京都の人で、藤原氏の出身。比叡山(ひえいざん)横川(よかわ)で出家し、1218年(建保6)菩薩戒(ぼさつかい)を受けて、顕密(けんみつ)の諸宗および西山(せいざん)浄土教などを学んだが、達磨(だるま)宗覚晏(かくあん)(生没年不詳)の門に転ずる。その後、1234年(文暦1)京都深草興聖寺(こうしょうじ)の道元の門に投じ、つねに道元に随侍してその遊行(ゆぎょう)教化を助け、永平寺の建立や『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の筆録書写に尽くした。1253年(建長5)道元の退院後は永平寺2世となり、弘安(こうあん)3年8月24日示寂。著書に『正法眼蔵随聞記(ずいもんき)』『光明蔵三昧(こうみょうぞうさんまい)』があり、法嗣(はっす)に徹通義介(てっつうぎかい)、寒巌義尹(かんがんぎいん)、寂円(じゃくえん)(1207―1299)らがいる。

[石川力山 2017年7月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「孤雲懐奘」の解説

孤雲懐奘

没年:弘安3.8.24(1280.9.19)
生年:建久9(1198)
鎌倉時代の曹洞宗の禅僧。永平寺道元の高弟として名高い。懐弉とも。藤原氏(九条家)の出身。比叡山横川の円能について得度し,天台宗の止観(同宗が最も重視する修行実践法)や諸宗の学を修め,さらに浄土念仏を究めたのち,大和(奈良県)多武峰の覚晏に随って日本達磨宗(禅宗の一派)の禅風を学んだ。南宋より帰国した道元の噂を聞いて東山建仁寺を訪ね,問答の末に,その禅に心酔した。さらに文暦1(1234)年より正式に京都深草興聖寺の道元に随侍してその印記(嗣法の証明)を受けた。道元の北越入山に随って越前(福井県)永平寺に赴き,建長5(1253)年7月に道元の命で第2代となった。道元に従って上洛,その示寂をみとって帰越し,その霊骨を永平寺の承陽庵に納めた。その後も永平寺2代として道元の弟子たちを一手にまとめた。文永4(1267)年,徹通義介に席を譲って東堂(隠居の身)に退居したが,同9年より再び永平寺に住した。生涯にわたり道元への孝順心を貫き,遺言によって道元の墓塔の傍らに葬られた。興聖寺時代の道元の説示をまとめた『正 法眼蔵随聞記』は名高く,また道元の『正法眼蔵』の書写に尽力し,『永平広録』の編集にも関与した。著書に『光明蔵三昧』が知られる。<参考文献>竹内道雄『永平二祖孤雲懐弉禅師伝』,永平寺傘松会編『懐奘禅師研究』『永平寺史』上

(佐藤秀孝)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「孤雲懐奘」の解説

孤雲懐奘 こうん-えじょう

懐奘(えじょう)

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