姫路村(読み)ひめじむら

日本歴史地名大系 「姫路村」の解説

姫路村
ひめじむら

[現在地名]気高町八束水やつかみ

姉泊あねどまり村の西、逢坂おうさか谷と日本海に突き出した長尾ながお鼻の間の小さい谷間の海浜に位置する。西は長尾坂を越えて潮津うしおづ(現青谷町)。枝郷に船磯ふないそ(舟磯)・姉泊がある。姉泊は享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」では一村として扱われていて、すでにこの頃には少なくとも領内限りにおいて当村より分村していたと思われるが、この分村は天保五年(一八三四)届出された(藩史)。船磯は正保(一六四四―四八)以前からの内村で、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際内村として記載された(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)伯耆街道が横断し、船磯集落から一町ばかり西、長尾坂の途中に鳥取から五里にあたる一里塚が置かれていた(勝見名跡誌)。応永七年(一四〇〇)正月二四日の山名氏家遵行状(華頂要略)に「姫路村」とみえ日置上ひおきかみ郷のうち当村にあった庶子分を除いて京都鞍馬寺の雑掌に引渡すよう土屋次郎に命じている。

姫路村
ひめじむら

[現在地名]郡家町姫路

明辺あけなべ村の北、私都きさいち川の上流の谷間に位置し、この谷を登り詰めると因幡・但馬国境のおうぎノ山(一三〇九・九メートル)に至る。平家落人伝説がある。天正五年(一五七七)一二月二一日の毛利豊元宛行状(因幡民談記)に「私部上ノ郷」のうち「壱名 姫地村」とみえ、当地を名字の地とする姫地玄蕃允に与えられている。藩政期の拝領高は五四石余。本免四ツ二分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高七〇石余、竈数二〇余。「因幡志」では家数二六、産土神は山神。辻堂千手観音は因幡札第一四番札所。物産は炭・熊胆・猪胆・川獺・山椒魚。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高七五石余、竈数三五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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