天神村(読み)てんじんむら

日本歴史地名大系 「天神村」の解説

天神村
てんじんむら

[現在地名]福光町天神

小矢部おやべ川西岸、竹内四たけのうちしヶ村の東にある。村名は北部に天神社があることに由来する(「天満社略縁起」雉真神社文書)。同社は宝治二年(一二四八)一一月の石黒庄弘瀬郷内検帳(仁和寺文書)に天満とみえ、神田七反があった。社前には市(天満市)が立ち、小矢部川対岸の高宮たかみやの市とともに弘長元年(一二六一)頃には弘瀬ひろせ郷の領家と地頭間でその帰属が争われている(同二年三月一日「関東下知状」尊経閣文庫所蔵文書)。弘安元年(一二七八)七月五日領家と弘瀬郷東方地頭との間で和与が結ばれた際、「阿土野内畠」の東境は「堀波多」から「天満之道」を経て「梅宮」へ至る道と定められた(「石黒庄内弘瀬郷東方領家地頭和与状」仁和寺文書)

天神村
てんじんむら

[現在地名]石井町高川原たかがわら 天神

南島みなみじま村の東に位置し、南は飯尾いのお川を挟み高川原村、北は高畠たかばたけ村。慶長二年(一五九七)の分限帳に村名がみえ、小南与次郎が二〇〇石、太田彦六が一八五石余、五十君三右衛門が一五八石余を知行。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)に村瀬将監の知行分として高一四八石余・人数六とある。正保国絵図では高五四五石余。

天神村
てんじんむら

[現在地名]鳥海村上笹子

笹子じねご川上流ひのと川左岸に水無みずなし上野宅かみのやけ野宅のやけしたみや・天神の小集落が並ぶ。

元禄一〇年(一六九七)の国御絵図三枚之内生駒主殿知行所羽州由理郡矢島到米下村之図(県立秋田図書館蔵)に「天神村新田」とある。宝暦八年(一七五八)御領分覚書(山懐の村)に、本田一九〇石五升三合、新田三石三斗八合、家数三五軒、人数二八一人とあり、小名主の下に四人の組頭がいた。

天神村
てんじんむら

[現在地名]出雲市天神町・塩冶有原町えんやありはらちよう

神戸かんど川右岸にあり、西と南は下塩冶村北東白枝しろえだ村。もと塩冶村のうちで、慶安二年(一六四九)以前に分村した。同年の天神村御検地帳に田方四五町六反余・分米六二五石余、畑方二四町三反余・分米一八九石余、役屋敷一三・引屋敷八とある。元禄十年出雲国郷帳では高一千四九石余、寛文四年(一六六四)の本田高一千三二石余、新田高はない。

天神村
てんじんむら

[現在地名]五所川原市金山かねやま

大釈迦だいしやか丘陵西端に位置し、東北は平町たいらまち村、西は川代田かわしろた村に接する。

貞享元年(一六八四)郷村帳に寛文四年(一六六四)以後の新田として三三一・一石とある。貞享四年の検地帳は田方一〇町九反三畝二歩・畑方一町五反六畝二八歩、田畑屋敷合せて一二町五反、村高一〇三・〇五三石と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報