天界寺跡(読み)てんかいじあと

日本歴史地名大系 「天界寺跡」の解説

天界寺跡
てんかいじあと

[現在地名]那覇市首里金城町一丁目

首里城の西、守礼しゆれい門の南にあった臨済宗妙心寺派の寺院。山号は妙高山、本尊釈迦如来。琉球国王尚家の菩提寺で、円覚えんかく寺・天王てんのう寺とともに王府の三大寺。ティンケェージとよんだ。首里古地図では綾門大あいじよーうふ道の南側、守礼門から玉陵たまうどうんに隣接する間の広大な寺域には松林が続く。寺門は北向きで綾門大道に接し、石垣で囲まれた三区画がみえる。守礼門(待賢門)傍らにある大きな松山を妙高山と称したようである(琉球国由来記)。松山を天界寺松尾ていんけえーじまーちゆーともいった。

〔創建〕

球陽尚泰久王三年(一四五六)条に、景泰年間(一四五〇―五六)尚泰久が創建したとある。「琉球国由来記」には尚泰久の仏法興隆の願により、景泰年間に寝室・方丈・両廊・東房・西房・大門・厨子などを備えた寺が建立された。開山は渓隠安潜とある。「李朝実録」には尚泰久の命を受けて景泰六年八月戊辰に渡鮮した使僧道安が経典を所望しており、このとき大蔵経を与えられたようである(同書天順二年三月戊戌条)。おそらく景泰六年には一寺建立の発願がなされていて、求経使が遣わされ、大蔵経入手の前後に造寺が始められたようである。同書天順五年(一四六一)一二月戊辰条に天界禅寺を建立したとある。「南島風土記」は天界寺は尚泰久の発願で、尚徳時代に建立されたのであろうと推定している。「球陽」尚徳王六年(一四六六)条によれば、父尚泰久の志を継いだ尚徳が新たに大宝殿を建立し、巨鐘を鋳造し天界寺に懸けたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報