綾門大道(読み)あいじよーうふみち

日本歴史地名大系 「綾門大道」の解説

綾門大道
あいじよーうふみち

首里城跡の城外西方に延びる約五〇〇メートルの道。東は上の綾門(ウィヌアイジョー)とよばれた守礼しゆれい門から、西は下の綾門(シムヌアイジョー)とよばれた中山ちゆうざん門までの区間で、真和志まーじ之平等のうち真和志まーじ村と、寒水川すんがー村・金城かなぐしく村の境界をなしていた。道幅は約一二メートル、路面は琉球石灰岩の石粉を厚めに敷詰め、ネナシカズラのつき汁をまいて舗装していたという。一五三四年に渡来した冊封正使陳侃は、綾門大道について「使琉球録」に「五里外有牌坊一座。扁曰中山。自此以往、路皆平坦、可容九軌。旁塁石墻、亦若百雉之制(五里の外に牌坊一座有り。扁して中山と曰う。此れより以往、路皆平坦にして、九軌を容るべし。旁らに石墻を塁ね、また百雉の制の若し)」と記しており、一六世紀前半には国都の主要道として整備されていたようである。

中山門(牌坊一座)は、「球陽」尚巴志王七年(一四二八)条にみえる国門にあたり、同年創建された。中山門の名称については、「琉球国旧記」に尚巴志の冊封使であった柴山らが宣徳三年(一四二八)に「中山」の扁額を帯来し、一号坊(中山門)に懸けたことによるとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報