大針村(読み)おおはりむら

日本歴史地名大系 「大針村」の解説

大針村
おおはりむら

[現在地名]坂祝町大針・加茂山かもやま

木曾川の支流加茂川と寿後すご川の合流点付近に位置し、東は太田おおた(現美濃加茂市)、西は黒岩くろいわ村、南は酒倉さかぐら村、北は加茂野かもの(現美濃加茂市)。「おはり」とも発音し、「新撰美濃志」は「和名抄」の各務かかみ大榛おおはり郷をここに比定している。暦応四年(一三四一)一〇月二八日の修理権大夫奉書(朽木家古文書)に「美濃国蜂屋庄内太田郷并鷹栖村大針郷」とある。これらの土地に対し、佐分加賀入道・掃部助入道・亀寿丸らの押領押妨があり、佐分越前前司棟貞の代官忠泰が幕府に訴え、幕府は下地を忠泰に沙汰しつけるよう命じている。

大針村
おおばりむら

[現在地名]伊奈町大針

羽貫はぬき村の南東に位置し、東は綾瀬川を隔てて埼玉郡駒崎こまさき(現蓮田市)大部分が綾瀬川右岸の大宮台地上に立地する。天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入国後、伊奈忠次領となる(寛政重修諸家譜)。田園簿では田一〇二石余・畑九二石余、ほかに改出高一一四石余・野銭永一貫五五〇文があり、旗本伊奈領。寛文五年(一六六五)の上尾宿助馬調(「絵図面村々高」田中家文書)でも伊奈領であるが、宝暦九年(一七五九)には旗本木下領となっており、以後幕末まで同氏に伝えられたと考えられる(同年「桶川宿定助郷加助郷村々勤高」武笠家文書、改革組合取調書など)

大針村
おおはりむら

[現在地名]多治見市大針町

北流するひめ川の沿岸にあり、北・西は大藪おおやぶ村、南は根本ねもと村。姫川支流大針川が流れる。永徳三年(一三八三)一一月の室町幕府奉行人封裏寺領目録写(永保寺文書)に「大針郷」とみえ、郷内の田一町三反が永保えいほう寺領となっている。慶長郷帳などでは大藪村と同様姫四ヵ村のうち。元禄郷帳に大針村とみえ二二七石余、幕府領。文化一二年(一八一五)の村明細帳によれば田一五町二反余・畑三町一反余、家数四〇(うち潰百姓・水呑とも一七)・人数一六四、馬六。松・竹の御林計三、郷蔵、溜池圦樋一がある。

大針村
おおばりむら

[現在地名]春江町大針

奥布目おくぬのめ村の北西にあり、北東福島ふくしま(現坂井町)、北西は東長田ひがしながた(現坂井町)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では江留えとみ庄に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一六〇石・畠方一〇石。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、文政三年(一八二〇)福井藩預領となる。

大針村
おおばりむら

[現在地名]朝日村大針

川上かわかみ村の北に位置し、大鳥おおとり川左岸の平地に大鳥街道を挟んで集落が点在する。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一〇〇石余。正保郷帳では田高一〇〇石余・畑高四石余。元禄九年(一六九六)には家数一五・人数八二(「本郷組宗旨寺判指上帳」鶴岡市郷土資料館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報