大郷(読み)おおぶけごう

日本歴史地名大系 「大郷」の解説


おおぶけごう

保倉ほくら川下流右岸の新田地帯にあった近世郷。ほぼ現在の頸城村と大潟おおがた町の一部に該当する。当地域は近世初期までは「大ぶけ野谷内」とよばれる湿地帯で、文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では巨大な湖として描かれている。寛永年間(一六二四―四四)以降新田開発が進められていく過程で、開発者の一人神戸三郎左衛門が新田を大新田と名付け、その後付近一帯が大郷とされた。「」は水のあふれただよう様を表すという。大新田の開発は高田藩主松平光長の時代に、家老小栗五郎左衛門の殖産興業政策を受けて始められた。寛永一二年高田たかだ(現上越市)の商人宮島作右衛門は、上州浪人神戸三郎左衛門・茂田七右衛門らが甲州流の土木技術をもっていることを知り、小栗氏の許可のもとに彼らを呼寄せ、実地踏査を行い、開発計画を練った。同一四年宮島・神戸・茂田氏ら五人は正式に藩に対し、新田開発の許可を願出た(「覚」宮島家文書)。そのための経費はすべて自分持とされたが、実際は藩や富豪からの出資があったと思われる。


おおやぶごう

和名抄」所載の郷。訓を「於保也不」(高山寺本)、「於保也布」(東急本)とする。同名の郷は全国的にも他に例がない。郷名の大は、天平神護三年(七六七)五月七日の越中国司解(東南院文書)に奈良東大寺墾田地として大庄地一五〇町とあるのが早い。また神護景雲元年(七六七)一一月一六日の越中国司解(同文書)や同日付の新川郡大村墾田地図(正倉院蔵)には大村とみえ、大地名が奈良期に定着していたことを示す。


おおぬまごう

「和名抄」所載の郷で、高山寺本で於保奴末、東急本では於保奴万と訓じ、名博本ではヲホヌマとする。「日本地理志料」は房陽郡郷考や、現丸山まるやま沓見くつみの巨沼に由来する郷名ではないかという「千葉県古事志」の説、また同町安馬谷あんばや大沼おおぬまの地名があることから、丸山川下流域の現丸山町安馬谷から加茂かも・沓見の地域一帯に比定している。「大日本地名辞書」は同じく丸山川下流の平地に所々沼が存在することを記し、現千倉ちくら町北部地域から丸山町加茂・沓見・岩糸いわいとなどの地に比定している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「大郷」の意味・わかりやすい解説

大郷[町] (おおさと)

宮城県中央部,黒川郡の町。人口8927(2010)。町域の南部,北部は丘陵で,中央を鳴瀬川の支流吉田川が東流する。現在は水田が広がる吉田川沿岸はかつては低湿地で,吉田川の遊水池としての機能をもっていたが,元禄年間(1688-1704)から仙台藩の直営で品井沼干拓工事が行われて新田が開発された。明治以降も河川改良や排水工事が進められ,穀倉地帯にかわった。畑地ではタバコが栽培され,肉牛を中心とした畜産も盛んである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報