大部庄・大部郷(読み)おおべのしよう・おおべごう

日本歴史地名大系 「大部庄・大部郷」の解説

大部庄・大部郷
おおべのしよう・おおべごう

加東かとう郡内の奈良東大寺領庄園で、郷としては平安時代末期から鎌倉時代に現れる。保元二年(一一五七)八月日の播磨国庄園文書目録(東大寺文書、以下同文書は省略)に「件案文未到 大部庄文書」とみえる。応保二年(一一六二)五月一日の官宣旨案(東南院文書)によると、東大寺領垂水たるみ(現神戸市垂水区)粟生あお・赤穂三ヵ庄の代りに大部郷の田地・荒野一処を立券して久安三年(一一四七)の宣旨により成立し開発が進められたが、仁平三年(一一五三)頃、播磨の知行国主藤原忠実が寺家領知は垂水庄など三ヵ所とし大部庄は収公するようにと命じたため、東大寺の反対にもかかわらず国が収公したままであった。「吾妻鏡」文治四年(一一八八)六月四日条に載る五月一二日付の後白河法皇院宣には「播磨国景時知行所々事」として「福田庄・西下郷・大部郷」とあり、大部郷等について申状に任せ梶原景時(景時の郎従)の違乱の停止を命じている。建久三年(一一九二)八月二五日の官宣旨案(浄土寺文書)によると、久安三年の宣旨に任せて旧跡に大部庄の朽ち損じた四至示を改めて立てるよう命じている。この時の四至は「東限大墓、西限賀古川、南限河内村、北限南条」で、東の大墓は浄土寺のある現浄谷きよたに町付近、西は加古川、南の河内かわち村は「播磨国風土記」にいう河内里に関係があり、河内明神の別称をもつ現垂井たるい町の住吉神社が当初鎮座していたという現山田やまだ町の住吉神社付近、北は文明一〇年(一四七八)に「播州福田保南条」(「政所賦銘引付」同年九月三〇日条)とみえる現古川ふるかわ町の東条とうじよう川を越えた付近と推定される。同年九月二日の播磨国留守所符案(早稲田大学図書館蔵)福田ふくだ保に対して大部庄境界への新儀の妨げを停止するよう命じているのは、この庄域の再確認によって生じた隣庄との紛争解決策だと思われる。

建久八年六月一五日の重源譲状案によると、大部庄は往古の寺領で長年廃絶していたのを、造東大寺大勧進職の重源が後白河法皇に申請して東大寺の復興造営に従事していた宋人の大工陳和卿に与え、和卿は東大寺に寄進し重源の進止となった。以後重源の庄開発と播磨別所浄土堂の建設が始まり、庄経営にあたる預所職には如阿・観阿が任じられた。重源の開発事業は公武の庇護を得、正治二年(一二〇〇)八月日の後鳥羽院庁下文案では浄土堂を祈祷所にし、建仁三年(一二〇三)五月一七日の将軍源頼家家政所下文案では大部庄と魚住うおずみ(現明石市)に乱入した守護使を停止するよう命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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