垂水庄(読み)たるみのしよう

日本歴史地名大系 「垂水庄」の解説

垂水庄
たるみのしよう

現吹田市の南西端、江坂えさか町二丁目・豊津とよつ町・江の木えのき町・芳野よしの町から現豊中市小曾根おぞね町三―五丁目にかけて、近世村でいえば豊島てしま榎坂えさか村を中心に垂水村の西部、小曾根村(現豊中市)の東部に存在した京都東寺(教王護国寺)領庄園。

〔成立と庄域〕

弘仁三年(八一二)桓武天皇の皇女布施内親王の遺領が東寺に施入されて成立した(同年一二月一九日「民部省符案」東寺百合文書。以下記述の多くは同文書により、同文書については必要に応じ個別文書名のみを記す)。同民部省符案には四至の明示がなく、長保二年(一〇〇〇)一月二六日の東寺宝蔵焼亡日記写には、四至が「限東三条堺 限南三国河 限西六条堺 限北四条一里廿五坪 五条二里四坪」とみえ、これは末尾の「文治三年十一月十七日以正文書写之」の記述により、鎌倉初期の状況を示すもので約九〇町余の規模である。当庄域は千里丘陵南西端に位置し、南の三国みくに(現神崎川)に向かって北の丘陵部より糸田いとだ川・たか川・天竺てんじく川の小河川が注ぐ低湿地であり、摂関家領垂水西たるみのにし牧榎坂郷に内包されて存在した。そのため西牧榎坂郷の住民が垂水庄に出作したり、双方から低湿地を開発するにつれて庄域の拡大をはかったのか、西牧領と当庄域とは錯綜していたようである。例えば昭和五五年(一九八〇)垂水庄東限の三条堺より約一〇〇メートル東の地から「垂庄」と墨書された平安前期の土師器が出土しており、二条二里にも庄田があった可能性はある。周辺住人の出入作関係や領地の錯綜は摂関家の牧役賦課をめぐって両者の対立を引起した。永久四年(一一一六)正月、藤氏長者藤原忠実は当庄への牧役免除を認めたが(同月一三日藤氏長者宣)、白河院の命により、摂関家と東寺の両使が派遣され、年来の領地の坪々を確定して東寺領への牧役免除を明確にさせている(同年閏正月二八日白河院院宣案ほか)。このことは牧役が田数に応じて賦課されたことを示すとともに、双方の領域は当初はかなり不明確であったが、一二世紀前半に牧役賦課をめぐる争いから庄域の確定が行われ、文治(一一八五―九〇)の四至に固定されたものと考えられる。

〔平安時代〕

平安時代の東寺の支配については、康和三年(一一〇一)一二月七日の垂水庄地子米取納注進状案(教王護国寺文書)に一〇二石四斗の地子米収納と、仁平二年(一一五二)三月日付の東寺御影供菓子支配状に餅一〇合の調進がみられるだけで、当庄の負担内容の詳細は不明である。

垂水庄
たるみのしよう

現垂水区東部を中心に展開する庄園で、江戸時代の東垂水村西垂水村を遺称地とする。古代明石郡垂水郷(和名抄)の郷名を継承。大治五年(一一三〇)三月一三日の東大寺諸庄文書并絵図目録(東大寺文書)によれば、播磨国明石郡垂水庄の布の絵図一幀があり、東は寒川、西は垂水川、南は南海辺道、北は太山(現西区)境地に囲まれた三六一町の庄園であった。久安三年(一一四七)播磨国内の寺領垂水、粟生あお(現小野市)、赤穂の三ヵ庄と大部おおべ(現小野市)田地荒野一処を交換して大部庄とする宣旨が下され、東大寺の支配を離れた。しかし仁平三年(一一五三)頃この交換を元にもどすとの決定が藤原実行より東大寺に通達された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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