大神郷(読み)おおみわごう

日本歴史地名大系 「大神郷」の解説

大神郷
おおみわごう

和名抄」所載の郷。諸国の同名郷の訓によってオオミワとよむ。ただし大和国城上郡大神郷は古代の文献に「三輪」「美和」「三和」などとも記されるので、ミワの可能性もある。現揖斐いび揖斐川いびがわ町に三輪みわの地名があり、遺存地名と考えられる。当郷は「神人」姓を名乗る集団との関連が推定され、「続日本紀」大宝二年(七〇二)七月一〇日条の「美濃国大野郡人神人大献八蹄馬給稲一千束」との記事も当郷と結び付けてよかろう。美濃国に神人が広く居住していたことは、「和名抄」の席田むしろだ郡と賀茂かも郡にそれぞれ美和郷があり、大宝二年の御野国加毛郡半布里戸籍(正倉院文書)などにも神人姓の者がみられることからも知られるが、当郷は西濃地域における神人の拠点としての意味をもつ。

大神郷
おおがごう

「和名抄」所載の郷で、「豊後国風土記」の速見郡五郷の一つに該当すると考えられている。「和名抄」高山寺本には大野とみえるが、道円本・東急本では大神とある。現在の日出ひじ町域にあたる。真那井まない地区での長老の塚ちようろうのつか古墳遠見稲荷とおみいなり古墳、塩屋しおや横穴のほか、川崎かわさき地区井久保いくぼ横穴の存在などが郷成立の前提として注目される。史料的には平安後期から宇佐宮弥勒寺領庄園浦部十五箇所の一つ大神庄として確認されるが、その段階ではすでに日出庄も当郷内に立券されていた。

大神郷
おおみわごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本には記載がなく、東急本も訓を欠く。訓は「大日本地名辞書」「西宮市史」による。「有馬郡誌」は「おおむちごう」と訓じる。郷域について「摂津志」は三輪みわ(現三田市)にあて、「日本地理志料」はてら・三田・川除かわよけ大原おおはら貴志きし深田ふかた(現同上)上宅原かみえいばら・下宅原・道場河原どうじようがわら(現神戸市北区)の諸邑に比定する。

大神郷
おおむわごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本は「於保无和」、東急本は「於保無和」、元和古活字本は「於保無知」と訓じる。高山寺本・東急本の訓は「おおみわ」の転訛か。刊本の訓は「神」を「むち」大己貴おおなむちなど)と読んだものか。いま前者によって読んでおく。郷域について「摂津志」が音の類似から大物だいもつにあて現尼崎市の尼崎一帯に比定しているのに対して、「日本地理志料」は多田ただ(現川西市)にあて、「大日本地名辞書」も多田村と東谷、すなわち現川西市西多田から同市一庫ひとくら辺りまでを含む地域とする。

大神郷
おおみわごう

「和名抄」東急本所載の郷。高山寺本に記載はなし。「播磨国風土記」に載らず、訓は高山寺本・東急本ともにみえない。平城宮跡出土木簡に「(磨カ)賀茂郡□□郷三和里」とあり、当郷にかかわるものとすれば、「オオミワ」と訓じてよかろう。「大日本地名辞書」は「オホムチ」と読むが根拠不明。

大神郷
おおみわごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。「和名抄」大和国城上しきのかみ郡大神郷に対する「於保无和」の訓に従った。ただし「大日本地名辞書」はこれを「オホガ」と読んでいる。式内社大神おおみわ神社(現新居町中之郷の二宮神社に比定)があり、「日本地理志料」および新旧の「静岡県史」はこの付近に比定する。「遠江国風土記伝」は浜名郡部の冒頭で神戸かんべ(現三ヶ日町岡本・摩訶耶寺・只木・平山付近)に比定するが、一方でやはり中之郷なかのごう付近とする説を載せている。

大神郷
おおがごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「於保美和と訓ムべし」とするが、「此郷、今は廃れて其名伝ハらず」とも記す。現在の瀬高せたか町に太神おおがという大字があるが、「明治二十二年町村合併調書」によると、太神村は明治九年(一八七六)下小川しもおがわ長島おさじま井手いでうえの三ヵ村が合併して成立。

大神郷
おおみわごう

「和名抄」高山寺本に「於保无和」、刊本に「於保無知」と訓ずる。「大和志」は「大神おほむち方廃三輪村存」として現桜井市大字三輪みわに比定。三輪山西麓の、いわゆる三輪の地域で、大神神社鎮座(桜井市の→大神神社。寛平三年(八九一)の大神郷長解写(正親町伯爵旧蔵文書)に「大神郷長解 申常地売買地立券文事 合参段佰弐拾歩在城上郡廿二条一千代里廿一廿二両坪西一 四至東限伊勢明子地 西限伊勢菅仁地 南限椋橋町 北限公田」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報