大瀬村(読み)おおせむら

日本歴史地名大系 「大瀬村」の解説

大瀬村
おおせむら

[現在地名]茂木町大瀬

大畑おおばたけ村の南、那珂川右岸に位置し、集落は低位河岸段丘上のたいら組と、山腹高位段丘面の高畑たかはた組に分れて形成される。「下野国誌」は古代の芳賀郡遠妹とおせ(和名抄)に比定する。那珂川の流れが鎌倉かまくら山にさえぎられ、この地で方向と傾斜を変えるので、急湍石をかみ,広い浅瀬をつくって大瀬の名が発生したともいう。

慶安郷帳では芳賀郡に記されるが、寛文四年(一六六四)烏山藩領知目録では那須郡内とある。はじめ烏山藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄郷帳では旗本北条領、享保一一年(一七二六)幕府領と烏山藩領、安永四年(一七七五)宇都宮藩領と烏山藩領の相給となり幕末に至る。

大瀬村
おおぜむら

[現在地名]八潮市大瀬

古利根川(中川)右岸の沖積地に位置し、南は古新田こしんでん村・がけ村、東は古利根川を境に葛飾郡さき(現三郷市)。中世の戸崎は河関が設けられた地として知られるが、応安五年(一三七二)一一月九日の長者宣写(香取旧大禰宜家文書)に「戸崎・大堺・行徳等関務」、至徳四年(一三八七)五月一日の大中臣長房譲状(同文書)に「とかさきならひニ大さかへ」とみえる大堺(大さかへ)を大瀬とする説がある。

大瀬村
おおせむら

[現在地名]南伊豆町大瀬

下流したる村の南西に位置し、南は相模灘に面する。慶長三年(一五九八)の大瀬・長津呂年貢目録写(小沢家文書)によると両村合せて田八町一反余・分米九三石余、畑屋敷七町九反余・分米四八石余。のち大瀬村と長津呂ながつろ村は分村したと思われる。江戸時代の初めは幕府領、天明四年(一七八四)下総関宿藩領、同八年幕府領となり幕末に至る(韮山町史)。なお江戸初期には五一石余が下田御番今村彦兵衛の知行地であった(「今村彦兵衛知行国郡村高覚」菰田家文書)

大瀬村
おおぜむら

[現在地名]三朝町大瀬

横手よこて村の西に位置し、三徳みとく川対岸は本泉もといずみ村。山裾に沿って集落をほぼ東西に倉吉往来(鹿野道)が通る。拝領高四七二石余。倉吉荒尾氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高五〇〇石余、竈数五〇余。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高五一五石余、高五五三石余、うち畑高三四石余。免五ツ八分、橋津はしづ御蔵(現羽合町)納。悪田加損米六石四斗。藪役銀四匁が課され、棟数一〇軒・役高二〇〇人。男一三三・女一三五・禅門一・医者二。三朝谷・加茂かも谷・竹田たけだ谷の入口にあたる要衝とされていた(在方諸事控)

大瀬村
おおせむら

[現在地名]内子町大瀬

喜多郡の最東端、現上浮穴かみうけな郡境に位置する。小田おだ川の南北両岸を占める山村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の喜多郡の項に「大瀬村 松林山有、茅山有、川有」とみえる。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には「土産 米・大豆・紙・鮎」と記されている。宝暦一二年(一七六二)の「紙御役所御仕法旧記」(曾根家文書)には、半紙漉四六五人、小間紙漉七〇人とあり、内子紙役所管内では紙漉業者が最も多い。明治初年の「伊予国喜多郡地誌」によると、戸数七七六、人口三千一六八、物産として楮三千三二丸、紙二千八五七〆、櫨八千一二貫があり、内山うちやま地区最大の紙漉の村である。

大瀬村
おおぜむら

[現在地名]本宮町大瀬

武住ぶじゆう村の西南、四村よむら川上流沿いに集落がある。南流する湯川ゆかわ川が集落北方で四村川に合し、おおかみだわ(九二七メートル)に発する皆根かいね川が東流して四村川に注ぐ。村の西端に位置する三日森みつかもり(八九三メートル)は口熊野・奥熊野の境をなす。

永禄五年(一五六二)より天保一一年(一八四〇)まで書継がれた某寺算用状(湯川家文書)の永禄七年二月吉日分に「大瀬大谷」とみえ、大谷おおたには武住村の旧名といわれる。慶長検地高目録にはみえず、天保郷帳による村高は九七石余で、もとは大瀬村・南根川村二村であったと記す。武住村の天保の村高が慶長(一五九六―一六一五)のそれより大幅に減少しているので武住村から分れたことも考えられる。

大瀬村
おおせむら

[現在地名]白鷹町大瀬

佐野原さのはら村の北、北東流する最上川右岸に位置し、対岸は村山郡今平こんぺい村・大舟木おおふなぎ(現西村山郡朝日町)。藩境に位置したため主集落の大瀬や南東の平田ひらたに本口番所が設けられた。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一三〇石余、免二ツ三分、家数一二(うち役家四・肝煎一)・人数一三一、役木として漆・桑・青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は中。

大瀬村
おおせむら

[現在地名]日置川町大瀬

北は谷野口たにのくち村・くし村・九川くがわ(現大塔村)、東は竹垣内たけのがいと村、西は上露こうづい村・北谷きただに村。大瀬は合瀬のことで、将軍しようぐん川と御社みやしろ(現宮城川)の合流点に位置する。「続風土記」に「大瀬竹垣内旧一村にて大瀬川谷村といふ、今分れて二村となる」とあり、慶長検地高目録では竹垣内を含め「大瀬川村」と記される。慶長六年(一六〇一)の大瀬村の村高は二九・九二四石、田畠四町六反五畝二一歩、うち田地は一割三分で、家数一三(うち庄屋一・ありき一・役家八)であった(「大瀬村検地帳」福井家蔵)

大瀬村
だいのせむら

[現在地名]新吉富村大ノ瀬

なか村の南、八並やつなみ村の西の平坦地に位置する。佐井さい川が北西境をかすめて北流している。北東端にだい大池がある。江戸時代の領主の変遷は垂水たるみ村に同じ。元和八年人畜改帳では大ノ瀬村とみえ、給人分で家数三一・人数六九(うち惣庄屋一・百姓五・名子三)、牛一〇・馬四。天保三年(一八三二)の中津藩領郷村高帳下書では高三一四石余、うち改出高六五石余。

大瀬村
おおせむら

[現在地名]福井市大瀬町

福井城下西方、日野川の右岸に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では北庄下きたのしようしも郷に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方六八一石余・畠方一一三石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば本多内蔵助ほか四名の相給知行所。

大瀬村
おおせむら

[現在地名]北山村大字大瀬

北山川支流のひがしノ川流域に立地。慶長郷帳には村名はみえず、村高九四五・一九七石の「北山村」のうちに含まれる。寛永郷帳に初めて村名が現れ、村高三三・〇七石、幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報