喜多郡(読み)きたぐん

日本歴史地名大系 「喜多郡」の解説

喜多郡
きたぐん

面積:三五〇・六〇平方キロ
長浜ながはま町・内子うちこ町・五十崎いかざき町・肱川ひじかわ町・河辺かわべ

県の中央部。北流する肱川の中流域と、その支流で南流する小田おだ川・中山なかやま川流域と、大洲おおず市内を西流・北西流する肱川下流域および伊予灘の断層崖海岸地域とからなる。北部は壺神つぼがみ(九七一メートル)うしみね(八九六メートル)ふなさこ(六三一メートル)、中山川渓谷を連ねる稜線で伊予郡に接し、東部は標高六〇〇―七〇〇メートルの稜線を連ね、小田川の河谷を横切って、うつむき山(五三六メートル)ささとう(九五五メートル)雨乞あまごい(一二一三メートル)を連ねる線で上浮穴かみうけな郡に接し、南部は大旗おおはた(一一八四メートル)峰峠みねんとう(五五〇メートル)竜王りゆうおう(四四五メートル)鹿野川かのがわ湖、御在所ございしよ(六六九メートル)白髭しらひげ(四七〇メートル)鳥坂とさか(四六五メートル)をもって東宇和郡と境し、西部夜昼よるひる(二八〇メートル)出石いずし(八一二メートル)、伊予灘海岸を連ねる線で八幡浜やわたはま市と西宇和郡に接する。四国山系の西部が全郡域に連亘し、山がちで、平地は肱川の本支流の刻む河谷、内山うちやま大洲盆地にあるにすぎない(→肱川

郡名は「三代実録」貞観八年(八六六)一一月八日条の「割伊予国宇和郡宇和喜多両郡」を初見とする。宇和郡の北部をさす「きた」を佳名の「喜多」と表記したのであろう。北、岐多などの異記がある。「和名抄」に「喜多郡」と記し、「岐多」と訓じる。郡内にあった矢野やの久米くめ新屋にいやの三郷が記載されている。古代の郡域は、現在の喜多郡に伊予郡中山町を加え、旧浮穴郡に属していた河辺村内子町の一部を除いた地域および平野ひらの町を除いた大洲市域とほぼ同一地域と推定される。

〔原始〕

肱川町山鳥坂やまとさかの河辺川沿岸で、三〇万年前のものと推定される人の中指骨・門歯・臼歯・顎の骨などが発見され、鹿野川原人の存否が問題となった。五十崎町竜王城跡から縄文後期の土器片が、また肱川町宇和川うわがわの肱川沿岸から弥生期の石器が発見され、五十崎平岡ひらおかの小田川沿岸に弥生中期の遺跡があった。肱川河口の長浜町内には、出石山・壺神山をはじめ戒川かいかわ大越おおごし下須戒しもすがい櫛生くしゆうなどの山地に、原始古代人が崇拝祭祀の対象としていた巨石遺跡と推定されるものが散在する。なお時代は下るが、内子町大瀬おおせ程内ほどうちに刀子と明銭を蔵している経塚があった。

〔古代〕

喜多郡が分立して一九年経過した元慶八年(八八四)一〇月一七日の太政官符(類聚三代格)によれば、伊予国から喜多郡に少領一員を置くよう請願し許された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報