大安寺(奈良市)(読み)だいあんじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大安寺(奈良市)」の意味・わかりやすい解説

大安寺(奈良市)
だいあんじ

奈良市大安寺町にある高野山(こうやさん)真言(しんごん)宗の別格本山。南都七大寺のうち東大寺に次ぐ大寺で、古来、百済大寺(くだらおおでら)(百済寺)、大官大寺(だいかんたいじ)、大寺(おおでら)、南大寺(なんだいじ)とも称せられた。現在は癌(がん)封じの寺としても知られる。617年(推古天皇25)に聖徳太子発願(ほつがん)により、平群(へぐり)郡熊凝(くまごり)村(大和郡山(やまとこおりやま)市)に一宇を建立し熊凝精舎と称したのがその初めと伝える。639年(舒明天皇11)に百済(くだら)川のほとりに移り百済大寺と称したが、やがて火災にあい、以後修復に努め、673年(天武天皇2)伽藍(がらん)を高市(たけち)郡に移し、高市大寺(たけちのおおでら)と称し、さらにのちに大官大寺と改めた。710年(和銅3)の平城遷都とともに当寺新都の左京六条四坊に移された。平安前期に編まれた『続日本紀(しょくにほんぎ)』に当寺のことが記されている。718年(養老2)に唐から帰朝した道慈(どうじ)はここで三論(さんろん)宗を講説し、721年(養老5)には行基(ぎょうき)が100人の僧を度した。815年(弘仁6)最澄(さいちょう)は当寺において天台を講じ、829年(天長6)空海別当に補された。当寺は三論・成実(じょうじつ)・華厳(けごん)・律(りつ)の諸宗を兼学したが、とくに三論宗の根本道場として重きをなし、その所伝を大安寺流という。壮大な伽藍配置は大安寺式とよばれるが、数次の火災などにより鎌倉期以後は衰退し、わずかに残っていた金堂延享(えんきょう)年間(1744~1748)崩壊した。1889年(明治22)橿原(かしはら)神宮造営に際し、当寺の礎石の大部分が運び去られて荒廃したが、1912年(大正1)に至ってようやく堂舎再建の運びとなり、現在の堂宇が建てられた。本堂には秘仏十一面観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像が安置され、嘶(いななき)堂には秘仏千手観音(せんじゅかんのん)立像(馬頭(ばとう)観音像とも)、収蔵庫(讃仰殿(さんごうでん))には不空羂索(ふくうけんさく)観音立像、楊柳(ようりゅう)観音立像、聖(しょう)観音立像各一体、および四天王立像(以上いずれも国の重要文化財)を蔵している。これらは日本彫刻史上、大安寺様式と称せられ、いずれも天平(てんぴょう)末期から平安初期につくられた一木造の貴重な遺品である。なお当寺には空海が将来したと伝える周尺が保存されていて、古来これを大安寺尺と称している。寺の南約1キロメートルの所に大安寺の塔跡がある。

[祖父江章子]

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