城尾城跡(読み)じようのおじようあと

日本歴史地名大系 「城尾城跡」の解説

城尾城跡
じようのおじようあと

[現在地名]八尾町城生

越中南部の神通川西岸の台地(比高約五〇メートル)に築かれた山城で、城生城とも書き、別名を恵智谷城・天狗平てんぐひら城ともいう。城生じようのうは越中の飛騨口にあたり、神通川沿いの越中―飛騨間を結ぶ交通路を押える所に位置した国境の要衝で、戦国期から近世初頭にかけて大きな役割を果した。城主斎藤氏は文和年間(一三五二―五六)将軍から勲功の賞として楡原にれはら保を拝領したとされる(「斎藤国則訴状案」仁和寺文書)。同保は婦負郡の南部一帯の地域をさすが、時あたかも南北朝の争乱期にあたることから、斎藤氏による城尾築城もこの文和年間よりさほど遠くない時点で行われたとみられる。また斎藤氏の同保拝領は観応の擾乱で越中を拠点に反幕府行動を展開した桃井直常追討の戦功によるものとみられるが、そうした経歴は斎藤氏が幕府奉公衆としての由緒をもっていたことを推測させる。楡原保でみるとおり、斎藤氏は京都仁和寺と争ったりするが、のちに婦負郡南部に大きな勢力を有する国人として成長を遂げ、戦国期には神保氏の被官となることもなく、比較的独自な立場を保持した。しかし天文年間(一五三二―五五)神保長職の勢力が大きくなると両者の緊張は高まり、ついに天文一二年神保氏は斎藤氏を攻め、斎藤方を当城内に籠城させている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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