坪野村(読み)つぼのむら

日本歴史地名大系 「坪野村」の解説

坪野村
つぼのむら

[現在地名]加計町坪野

津浪つなみ村の南東に位置し、南側を太田おおた川が東流し、その北岸の河岸段丘谷底平野に集落が点在する。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高一五八・六六四石。寛永一五年(一六三八)の地詰によって二一七石、その後明暦二年(一六五六)、宝暦一〇年(一七六〇)にも地詰され二二三・二四三石となり、翌年より定免四・六六(国郡志下調書出帳)。広島藩蔵入地。

村内は本郷ほんごう宇佐うさ三ッ石みついし附地つけじの四集落で構成され、農業を中心に楮・麻・茶・蒟蒻玉などの商品作物もみられた。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]井波町坪野

井波町の北、高瀬たかせ村の東に位置。井波町から放生津ほうじようづ(現新湊市)に至る道が通る。文明七年(一四七五)に蓮如が瑞泉ずいせん寺へ下向した際、「坪野ノソト野ヘ御コシ」とある(賢心物語)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「つほの」「新つほの」がみえ、役家数は一〇と七、つほ野組に属する。正保郷帳では高一千一二石余、田方六一町二反余・畑方六町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千四三石・免五ツ五歩、小物成は山役一一四匁(三箇国高物成帳)。所属組は北川きたがわ村に同じ。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)によれば、寛文一二年の手上高二一石、享保一四年(一七二九)の検地引高一六四石、ほかに手上高一〇石があり計九一〇石。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]志賀町坪野

岩田いわた村の南東、眉丈びじよう山系の山麓に位置し、坪野・神田じんでんの二集落からなる。中央部を菱根ひしね川が北流。近世初頭は雨田あまだ村に属し、正保郷帳に村名はみえないが「雨田村・谷村・岩田村・宿女村」の高一千四三石余に含まれたとみられる。元和二年(一六一六)の高三六一石余(「苦竹運上極」雄谷文書)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高二九六石、免四ツ八歩、新田高一八石、小物成は山役八五匁・苦竹役九匁、鳥役四匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細の高二五二石余・新開四一石、家数四〇(うち頭振九)・人数一九〇、馬一七、稼は布・苧・塩・かりやす刈。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]婦中町速星はやほし

神通川中流左岸と井田いだ川中流右岸の間に位置。北は御門みかど村、南は砂子田すなごだ村。砂子田村の枝村で、江戸時代前期の開拓と伝える(婦負郡志)。正保郷帳では海川原うみかわら村とともに板倉いたくら村の内とされる。承応四年(一六五五)の村御印では草高二七五石余、免一ツ四歩四厘で、浅野将監ら八人の知行地と蔵入地であった(村々御印物等書上)。慶長―寛永(一五九六―一六四四)頃まで続いた庄官として当村の若林式部の名がみえる(「越中古跡并庄官百姓等之記」前田家文書)。享保六年(一七二一)には高二二五石余(「村付高改帳」島倉家文書)

坪野村
つぼのむら

[現在地名]砺波市坪野

正権寺しようごんじ村の南、和田わだ川支流坪野川の左岸段丘上にある。元和五年(一六一九)の家高新帳(川合家文書)に坪野村とみえ、戸出又右衛門組に属し役家数二。正保郷帳では高五七石余、田方一町七反・畑方二町一反余。明暦二年(一六五六)の村御印留には東坪野ひがしつぼの村とある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印でも東坪野村とあり、草高六三石・免五ツ四歩、小物成は山役四八匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には五軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。文政八年(一八二五)時および天保一〇年(一八三九)以後は般若組に属した。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]辰口町坪野

大口おおくち村の西、能美丘陵中央部に位置する。地名は小さな野原、一坪の野とか壺野の意で、周囲を山に囲まれ、壺の底のような地にあることからきているという。古くから七軒百姓とよばれ、伝承によると南西の鍋谷なべたに村から七人の百姓が移り住んだのが草創ともいう(辰口町史)。正保郷帳では高一六〇石余、田方四町九反余・畑方四町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(坪野区有文書)では高一七〇石、免三ツ七歩、小物成は山役五六五匁・漆役一九匁。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]魚津市坪野

片貝かたかい川とかど川の間の台地にあり、北西は北山きたやま村。正保郷帳では高三五二石余、田方九町三反余・畑方一四町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高三三三石・免四ツ七歩、明暦二年(一六五六)の新田高二石、小物成は山役五八匁・蝋役六匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の打銀高も三三五石(「高免帳」杉木家文書)。所属組は魚津町田地方うおづまちでんじがたと同じ。明治五年(一八七二)の戸数五三(新川県戸数表)

坪野村
つぼのむら

[現在地名]金沢市坪野町

伏見ふしみ川の西岸、くらたけ村の北西に位置する。一向一揆の将河合才覚の屋敷が地内にあったと伝える(加賀志徴)。正保郷帳では高九一石余、田方二町余、畑方四町、寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九七石・免六ツ一歩(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数五・百姓数六(高免付給人帳)。天保一三年(一八四二)の村御印物成等書上帳によれば、享保九年(一七二四)に三石余の新開高(免五ツ一歩)があった。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]松之山町坪野

赤倉あかくら村より赤倉越の道を南西へ上ったところ、ひがし川左岸に位置し、南は五十子平いなごだいら村。正保国絵図に高三〇石余。天和三年郷帳では高一六石三斗余と減じるが、地滑りの被害によると考えられる。反別田七反余・畑屋敷一町一反余・山林六反余・青苧畑二反余で、漆木四五本、家数七。安永九年(一七八〇)新田検地では高八石七斗余。赤倉越で魚沼地方との交易が盛んであった江戸時代は、物資の中継地であり、江戸中期以降、山中には珍しい豪農が現れた。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]糸魚川市坪野

中林なかばやし村の東。天正一五年(一五八七)八月の経田永付帳(伴文書)に「坪野村」と記し、中世は経田きようでん村のうち。貫高六貫二八五文で米合計一八俵一斗余。名請人は三人。地名に堀田・清水尻・大免作・堂のまへなどがある。正保国絵図に高三〇石余とある。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]吉川町坪野

東は尾神おかみ村、南は高沢入たかさわいり村に接し、西に平等寺びようどうじ村がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分此外三方分増野村 下」とみえ、本納六二石三斗三升・縄高六五石三斗九升四合五勺、家六軒・二一人とある。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高一一三石余とあり、「此処番所但横山村・尾神村へ通路」と記される。

坪野村
つぼのむら

[現在地名]小千谷市坪野

北は鴻之巣こうのす村、西は三島さんとう塚之山つかのやま(現越路町)、南は山谷やまや村、東は小粟田こおだ村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android