日本大百科全書(ニッポニカ) 「坂東三津五郎」の意味・わかりやすい解説
坂東三津五郎
ばんどうみつごろう
初世(1745―1782)初め竹田巳之助(みのすけ)といい上方(かみがた)の俳優であったが、初世坂東三八が養子にして三津五郎と名のらせた。江戸に下って名をあげた。和実(わじつ)の名手。
2世(1750―1829)1785年(天明5)初世尾上紋三郎が2世を継ぎ、大立者になった。後名2世荻野伊三郎。
3世(1775―1831)初世の子。1799年(寛政11)坂東簑助(みのすけ)から3世を継ぎ、上方の名優3世中村歌右衛門(うたえもん)と人気を争い、文化・文政期(1804~1830)の代表的名優となった。風姿がりっぱで、地芸と所作、時代と世話、どんな役にも優れた技量を示した。とくに和実を得意とした。江戸随一の所作事の名人ともてはやされ、『浅妻船(あさづまぶね)』『願人坊主(がんにんぼうず)』『傀儡師(かいらいし)』『山帰り』『源太(げんだ)』など数々の変化(へんげ)舞踊を演じ、人気があった。江戸深川の永木河岸(えいきがし)に別宅があったので「永木の親方」と親しまれた。
4世(1800―1863)3世の養子。1832年(天保3)2世坂東簑助から4世を継ぐ。3世の芸風を受け継ぎ、和実をよくし、生世話(きぜわ)に優れていた。所作事の名手として、4世中村歌右衛門と対抗して人気を二分した。晩年に中風を病んだので「ヨイ三津」とあだ名された。1850年(嘉永3)11世森田勘弥を襲名。
5世(1813―1855)3世の養子。4世の義弟。風姿と口跡に優れた女方(おんながた)で、坂東しうかと名のって活躍、伝法肌のいわゆる悪婆(あくば)の役を得意とし、とくに8世市川団十郎とのコンビで演じた幕末期の退廃的な美の創造が認められている。死後、5世三津五郎を追贈。
6世(1841―1873)幕末から明治初期にかけて活躍した女方。5世の子。1856年(安政3)6世を継ぐ。顔にあばたがあったので「あば三津」とあだ名でよばれ、人気があった。
7世(1882―1961)12世守田勘弥(もりたかんや)の長男。本名守田寿作。前名2世坂東八十助(やそすけ)。1906年(明治39)7世を継ぐ。青年時代に市村座の座頭(ざがしら)になった。6世尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初世中村吉右衛門(きちえもん)らとともに、大正・昭和の歌舞伎を支えた。舞踊の名人でもあり、かつ伝統的技芸の正確な継承者としても重んじられた。1949年(昭和24)芸術院会員、1955年歌舞伎舞踊の重要無形文化財保持者に認定され、1960年文化功労者。
8世(1906―1975)7世の養子。本名守田俊郎。初名3世八十助。1962年(昭和37)6世坂東簑助から8世を継ぐ。実悪(じつあく)、老(ふけ)役を得意とし、舞踊に優れていた。一時期関西歌舞伎に属し、いわゆる武智(たけち)歌舞伎の協力者となって若手俳優を指導した。研究熱心な俳優で、『戯場戯語』ほかの著書も多い。1973年、重要無形文化財保持者に認定されたが、フグ中毒で急逝。
9世(1929―1999)3世坂東秀調(しゅうちょう)の三男。1955年(昭和30)8世三津五郎の長女と結婚し養子となる。前名4世八十助、7世簑助。父の死により坂東流家元の三津五郎を襲名し、1987年9月、歌舞伎俳優としての9世を継ぐ。
10世(1956―2015)9世の長男。1962年(昭和37)に初舞台。前名5世八十助。歌舞伎以外でも、舞台や映画で活躍。2001年(平成13)1月、10世を継ぐ。2005年度日本芸術院賞受賞。
[服部幸雄]
『利倉幸一編著『七世三津五郎 舞踊芸話』(1977・演劇出版社)』▽『8世坂東三津五郎著『戯場戯語』(1968・中央公論社)』▽『8世坂東三津五郎著『歌舞伎 花と実』(1976・玉川大学出版部)』▽『8世坂東三津五郎・安藤鶴夫著『芸のこころ』(1982・ぺりかん社)』