坂戸村(読み)さかどむら

日本歴史地名大系 「坂戸村」の解説

坂戸村
さかどむら

[現在地名]坂戸市坂戸・日の出町ひのでちよう本町ほんちよう元町もとちよう溝端町みぞはたちよう薬師町やくしちよう山田町やまだちよう仲町なかちよう緑町みどりちよう南町みなみちよう鎌倉町かまくらちよう清水町しみずちよう八幡やはた二丁目・関間せきま一丁目・千代田ちよだ一丁目

市域中央部、北東流する高麗こま川右岸台地上にある。北は片柳かたやなぎ村、南は関間新田、高麗郡脚折すねおり(現鶴ヶ島市)、西は粟生田あおうだ村。南西から北へ日光脇往還が通り、南東からくる川越からの道が合流する。地名は康平年間(一〇五八―六五)に坂戸判官教明が当地に住したことに由来するなどという(風土記稿)。寛永二年(一六二五)九月二日島田庄五郎(重利)は高麗郡坂戸村二五石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿では田四九二石余・畑一八三石余、旗本島田久太郎領(六五〇石)・同島田庄五郎領(二六石余)。ほかに永源えいげん寺領二四石余があった。元禄一五年(一七〇二)以前に川越藩領となり、同年の河越御領分明細記では高六七六石余、ほかに四二二石余とある。以後幕末まで続き、慶応二年(一八六六)以降も同藩領(同三年「領分替引渡諸役用向筆記帳」安野家文書)。検地は承応三年(一六五四)に行われた(風土記稿)。秋元家時代の郷帳によれば高六七六石余、前々検地出高四一二石余、反別は田四九町四反余・畑九二町九反余。ほかに見取田一反余・見取畑一三町九反余・林五町九反余などがあり、山銭并草朶代永五貫一四七文を定納。家数一七〇・人数八九〇、馬七六。化政期の家数一八〇余で、日光脇往還沿いに並ぶ(風土記稿)。寛永年間に尾張徳川家鷹場となり、いったん廃止ののち享保二年(一七一七)の再置で再び同家鷹場に指定された(同四年「鷹匠木銭野菜代受取書」林家文書)。当村をはじめ石井いしい村・塚越つかごし村・片柳村は脚折村を野元とする九ヵ村入会原に入会秣場をもっていたが、慶安(一六四八―五二)以降この秣場の新開が進むなかで秣場の用益をめぐり当村など九ヵ村と厚川あつがわ村などとの間で争論が起きている(延宝五年「口上書」丸家文書)

坂戸村
さかどむら

[現在地名]佐倉市坂戸

岩富いわとみ町の西、鹿島かしま川左岸に位置。岩富村方面から千葉町へ向かう間宿として発達し、西宿にしじゆく新宿しんじゆくはその中心地であった。干鰯運送で賑わった通称干鰯ほしか道が通る。ひろにあった坂戸広遺跡出土の九世紀中頃とされる土師器坏に坂津寺と墨書されており、坂津は坂戸の古名とも考えられる。永享一一年(一四三九)五月三日の当麻曼荼羅不審問答抄(大倉山精神文化科学図書館蔵)の奥書に「下総国臼井庄坂戸西福寺」とみえ、良定・良秀によって書写されたことが知られる。これにより坂戸が臼井うすい庄に含まれ、一五世紀前半には浄土宗西福さいふく寺があったことが知られる。同寺には延徳二年(一四九〇)の紀年銘をもつ武蔵型板碑が残る。当地は「千学集抜粋」に臼井氏の一族の地としてみえ、千葉大系図では臼井氏の子孫とされた坂戸氏の名字の地。同氏は千葉氏の直臣化し、戦国期には本佐倉もとさくら城下(現酒々井町)に居住していた。

坂戸村
さかどむら

[現在地名]水戸市酒門さかど

水戸城の南方に位置し、東茨城台地北部にある。北は浜田はまだ村。縄文時代の塙坪はなわつぼ遺跡・下千束しもせんぞく遺跡・酒門東原さかどひがしはら遺跡、弥生時代の塙坪遺跡・権現台ごんげんだい遺跡・酒門台さかどだい遺跡、古墳時代の谷田町付やだまちづけ古墳群・権現台古墳群・酒門古墳群、奈良・平安時代の塙坪遺跡・荷鞍塚にぐらづか遺跡などがある。

水府志料」に「古しへ酒戸に作る吉田文書嘉元四年 又酒門とも書しに、後に坂戸に改めらる」とあり、応永一二年(一四〇五)の吉田郷等田地検注目録写(吉田薬王院文書)に「安貞二年田検注百姓名並目録事」として「酒戸郷」、文永二年(一二六五)の吉田社領家小槻有家下文写(吉田神社文書)に「吉田社領酒戸・吉沼・河崎等郷」、年月日未詳の吉田社神事次第写(同文書)に「坂戸・下居両郷」などとみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「千百拾四石弐斗 外弐百三拾六石四斗四升壱合 新田 坂戸村」とある。

坂戸村
さかどむら

[現在地名]高津区坂戸

東は上小田中かみこだなか(現中原区)、西は久本ひさもと村・溝口みぞのくち村、南は末長すえなが村、北は二子ふたこ村・北見方きたみかた村に接する。りよう用水とその支流根方ねかた堀が通り、用水には溝口村から入り北方を流れ上小田中村へ至る根方堀を利用。かみ高橋通たかはしどおり・しもの小字がある。

正平七年(一三五二)二月二一日の足利尊氏充行下文(県史三)に「稲毛庄内坂戸郷」とみえ、勲功の賞として美作左衛門太夫家泰に与えられている。延徳二年(一四九〇)六月二四日の山崎重久証文(同書)によれば、「稲毛庄坂戸郷木田見方」の代官得分六貫文より三貫文が豹隠ひよういん(鎌倉宝積寺か)へ返された。

坂戸村
さかどむら

[現在地名]六日町坂戸

六日町村・八幡やわた村の東、魚野うおの川対岸にある。集落は坂戸山西の山裾の河岸段丘に下坂戸・上坂戸がある。上坂戸の南の東泉田ひがしいずみだ村・大月おおづき村を経て雲洞うんとう(現塩沢町)へ通じる道がある。坂戸城の家臣の屋敷地であったといわれ、地字に上町うわまち埋田うめた・はりあみなどが残る。年欠の上葺萱注文(雲洞庵文書)によれば、雲洞庵(現塩沢町)に上葺萱を供出する地に「千五百把 坂戸郷 尻高」がみえる。

坂戸村
さかどむら

[現在地名]大野市うしはら

大野街道沿いの農村で、東は大野城下に通じ、西は坂戸峠を越えて計石はかりいし(現足羽郡美山町)に至る。地名は長承元年(一一三二)九月二三日の官宣旨案(醍醐雑事記)に記す牛原うしがはら庄の四至に「西限坂戸」とみえる。永禄一二年(一五六九)六月一六日の宝慶寺寺領目録(宝慶寺文書)に「町」分として「弐石 坂戸村 本住左衛門尉」とある。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では牛ヶ原村に含まれており、正保郷帳によると坂戸村は田方一六二石余・畠方六八石余。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)以降大野藩領。明和二年(一七六五)九月一一日付村絵図(「奥越文化」所収)には九人の百姓の名が記されるが、文政六年(一八二三)一〇月の郷中家数人別仕出帳(「越前宗門帳」所収)によると家数は高持九・水呑四・道場一、人数七一。

坂戸村
さかどむら

[現在地名]宇和町坂戸

宇和川上流域の平地と丘陵部を占める村。北は加茂かも村、南は上松葉かみまつば村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「坂戸村 茅山有、川有、水損所」とある。

太閤検地の石高は六五一石三斗五升、耕地面積の比率は田六七パーセント、畑三三パーセントであったが、寛文検地では石高が二五パーセントも減少し、田六五パーセント、畑三五パーセントの比率となっている。「墅截」による村柄は「中ノ上」、耕地は田「中」、畑「上ノ下」、水掛り「吉」である。鬮持制実施期の本百姓一人前の耕地は田九反、畑四反五畝で、百姓数五〇人のうち本百姓三〇人、半百姓九人、四半百姓一〇人、庄屋一人に分れている。

坂戸村
さかどむら

[現在地名]可児市坂戸

谷迫間やばさま村の西、蛇行しながら西流する可児川南岸にある。慶長郷帳に村名がみえ高三五三石余、岡田善同領。正保郷帳では田三二一石余・畑三九石余・山年貢七石余で幕府領。文化七年(一八一〇)の村明細帳によれば田三七七石余・畑五八石余(うち山年貢七石余)。用水は久々利くくり川から引水。溜池二ヵ所・御林三ヵ所がある。家数五一(高持二九・水呑二一・寺一)・人数一八一、馬五。伏見ふしみ宿(現可児郡御嵩町)への助郷高一一四石(元禄七年「伏見宿・太田宿助郷帳」奥村文書)

坂戸村
さかどむら

[現在地名]市川町坂戸

市川と支流尾市おいち川の合流点右岸に位置し、神西じんさい郡に属する。北西は同郡おく村、東は神東じんとう西川辺にしかわなべ村。元禄郷帳の坂戸村に「古ハ奥村」との注記があり、近世初期には奥村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に村名がみえ、同年以前に奥村から分村したと思われる。

坂戸村
さかどむら

[現在地名]津幡町坂戸

寺尾てらお(刈安川)右岸、越中坂えつちゆうざか村の東に位置。正保郷帳では高二二三石余、田方九町九反余・畑方五町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(向文書)の草高二四五石、免五ツ二歩、小物成は山役二一三匁・野役二匁・綿役一匁・蝋役二匁。文化八年(一八一一)の産物は蚕繭六〇貫目ほど・串柿二五束ほど・楮皮三〇束ほど・割木二千五〇〇貫目ほど・杪三五〇束ほど(「村々諸産物書上帳」新田文書)。天保六年(一八三五)加賀藩冥加蓄米として二九戸が三貫八四〇文を納入(「御算用場請取覚」向文書)

坂戸村
さかとむら

[現在地名]岡崎市島坂しまさか

矢作川右岸の自然堤防上に立地。西端はかつて矢作川の支流が流れていた。東に鹿乗かのり川用水が通る。近世を通じて岡崎藩領で川西手永に属する。寛永郷帳の村高一五七石余、享和二年書上には人別一七二人、うち男九〇・女八二。岡崎城下伝馬てんま町高札場まで二里一一町余。宝暦一二年(一七六二)の坂戸村名寄帳(矢作町史稿本)によれば、田一〇四石余・畑五五石余・新切上畑一石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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