六日町(読み)むいかまち

日本歴史地名大系 「六日町」の解説

六日町
むいかまち

面積:二六二・五六平方キロ

北はなかノ岳(二〇八五・二メートル)から北西に標高を落しながら延びる御月おつき山・八海はつかい山・猿倉さるくら山の稜線で北魚沼郡湯之谷ゆのたに村・大和やまと町、東は中ノ岳から南へ延びるうさぎ岳・丹後たんご山・越後沢えちごさわ山・下津川しもつごう山の稜線で湯之谷村・群馬県利根とね水上みなかみ町、南は小沢おざわ(一九四四メートル)から西に延びるうしヶ岳・巻機まきはた山・割引わりびき岳・金城きんじよう山の稜線で水上町・塩沢しおざわ町、西は桝形ますがた(七四八・五メートル)から北へ延びる中将ちゆうじよう岳などの稜線で十日町市と接する。町域西寄りにほぼ北流する魚野うおの川右岸には東部の高山から発する三国さくり川・五十沢いかさわ川・宇田沢うださわ川が合流し、西部の山地に源を発する平手ひらて川・庄之又しようのまた川は左岸に合流する。

六日町
むいかまち

[現在地名]山形市六日町・旅籠町はたごまち三丁目・相生町あいおいちよう宮町みやまち五丁目・薬師町やくしまち一丁目

旅籠町の北に延びる羽州街道沿いの町。西は小橋こばし町、東部は六日町裏。当町で羽州街道が西に折れ鍛冶かじ町に続く。最上氏時代城下絵図に町名がみえ、当町南部を馬見まみさき川が東から西へ流れていた。羽州街道沿いの当町と旅籠町の境にかかる橋をおお橋とよび、大橋から百姓ひやくしよう町に行く間が大橋おおはし町と俗称されていたこともある。六十里越街道が当町で羽州街道から分れて西進した。元和九年(一六二三)の志戸田村検地帳(山形県史)などには六日町・河原かわら町・本河原もとかわら町・新河原しんかわら町・百姓町の住民名が名請人として載る。最上義光時代には馬見ヶ崎川の本流が当町一帯を流れていたため,川原町万日まんにち河原と称している地域も含め六日町と称していた。六日の三斎市が立ち(元禄一〇年「屋敷家数等覚」山形故実録)、地名もこれに由来するが、羽州街道沿いの市日町とともに河原町(川原町)が通称であった。

六日町
むいかまち

[現在地名]八戸市六日町

八戸城下の中央、裏町通沿いに位置する町人町。東は朔日ついたち町、西は十六日じゆうろくにち町、北は三日みつか町、南は寺横てらよこ町・鷹匠たかしよう小路・長横ながよこ町に接する。中央を南西から北東に街路が通り、東端の朔日町境は大手筋に面する。

文久年間(一八六一―六四)八戸御城下略図に「六日町 一ツニ肴町と云」とあり、町家とされる。別名さかな町と称し、藩の海産物商の総元締の五十集請負人(五十集問屋)が代々居住した。貞享三年(一六八六)には「肴町半兵衛」が五十集請負人として三五〇文の五十集銭を徴収している(「八戸藩日記」同年一二月一一日条)。この頃には魚の独占販売が認められていたとみられ、御勘定所日記の元禄一二年(一六九九)四月二二日条に「当御町ハ肴町計ニ商売仕、市ヘハ出し申間敷被仰付」とある。

六日町
むいかまち

[現在地名]遠野市六日町など

横田よこた五町の一町。しん町の西、下組しもくみ町の東にあり、遠野街道を挟んで東西に延びる町。町名は六の日に市が開かれたことによるといい、中世阿曾沼氏の時代は多賀たがの里と称されたと伝える(上閉伊郡志)。遠野南部氏転移以前から町場が形成されていたが、寛永年間(一六二四―四四)の城下建設により当町を北側に移して新たに六日町をつくり、それまでの町を諸士小路とした。以降旧六日町は元六日もとむいか町、あるいは元町とよばれる(遠野古事記)

六日町
むいかちよう

[現在地名]盛岡市肴町さかなちようしも橋町はしちよう清水町しみずちよう

鷹匠たかしよう小路北東部の南に位置し、北東から南西に延びる奥州街道の両側町。二町半ほどの町人町で、毎月の市日は六日・一六日(「盛岡砂子」など)。盛岡では「むよかちょう」と称した。北は呉服ごふく町・肴町、南東は北から肴町・十三日じゆうさんにち町・うま町・こく町に接し、南西は上衆かみしゆう小路につづく。寛永城下図に町名がみえる。

六日町
むいかまち

[現在地名]会津若松市栄町さかえまち宮町みやまち上町うわまち

甲賀こうか町の東の通りで、六日町口郭門から北へ行く通り、北は博労ばくろう町に続く。長さ二町一五間余・幅五間、家数四七(新編会津風土記)大工だいく丁より南を上六日町、北を本六日ほんむいか町と称する。文禄元年(一五九二)蒲生氏郷が城郭を修築し、寺社や町人の居宅を郭外に移転させ、毎月の市日を定めたとき、六の日に市を立てるように定められたための町名。永禄四年(一五六一)蘆名盛氏が大沼郡本郷ほんごう(現会津本郷町)向羽黒山むかいはぐろやま城を築いたとき、三日みつか町・高田たかだ町・六日町などがあった。

六日町
むいかまち

[現在地名]鹿児島市名山町めいざんちよう山下町やましたちようなど

しも町一二町の一で、その北西端に位置。「鹿児島県地誌」には山下町を東に折れた所に位置し、東はつき町とある。天保城下絵図には南北に延びる筋に六日町通とあり、南はなか町に続く。正徳二年(一七一二)・翌三年の火災により、「薩陽落穂集」に「六日町より築地町之上広小路ニ罷成候」とあるように北側に広場が設けられた。

六日町
むいかまち

[現在地名]三戸町六日町

三戸町の北に位置する。東は川守田かわもりた町、南は熊原くまはら川を隔てて二日ふつか町に続き、北と西は川守田村である。寛永初年頃の配置図とみられる三戸御古城図に六日町とあり、町の西には御蔵跡・五十間御厩がみえる。当町の北東端の川守田町境は十二日じゆうににち町とも別称され、一二日市が立てられていたという(「奥筋行程記」岩手県立図書館蔵)

寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に家数四九とあり、他の三町とともに「三戸町方」とされる。

六日町
むいかまち

[現在地名]鹿角市花輪 六日町

花輪はなわの町並の南部に位置し、寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「六十三軒六日町」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「六日町」の意味・わかりやすい解説

六日町
むいかまち

新潟県南東部、南魚沼郡(みなみうおぬまぐん)にあった旧町名。現在は南魚沼市の中央部を占める地区。1900年(明治33)町制施行。1956年(昭和31)五十沢(いかざわ)、城内(じょうない)、大巻(おおまき)の3村と合併。2004年(平成16)大和(やまと)町と合併し、市制施行、南魚沼市となる。旧町域は、東南部を群馬県と接し、魚野(うおの)川が南北に流れる。六日町盆地の中心都市。JR上越線、北越急行、国道17号、253号、291号が通じ、関越自動車道の六日町インターチェンジがある。中世上田庄(うえだのしょう)の中心で、戦国時代は長尾氏の居城坂戸城(さかどじょう)が置かれ、城下町として発展し、名称もその山城(やまじろ)城下町の市(いち)に由来する。三国(みくに)街道と清水(しみず)街道の分岐点にあたり、近世は三国街道宿場町として栄え、六日町組の大割元も置かれた。また、魚野川河川交通の終点河岸(かし)場として重きをなした。現在は電気器具、一般機械などの工場が多く、商工都市に発展している。坂戸城跡は国指定史跡。越後三山只見国定公園(えちごさんざんただみこくていこうえん)の入口で、六日町温泉に近いスキー場として観光開発にも力が注がれている。

[山崎久雄]

『『六日町誌』(1976・六日町)』

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改訂新版 世界大百科事典 「六日町」の意味・わかりやすい解説

六日町 (むいかまち)

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