名手荘(読み)なてのしょう

百科事典マイペディア 「名手荘」の意味・わかりやすい解説

名手荘【なてのしょう】

紀伊国那賀(なか)郡の紀ノ川北岸,和歌山県那賀(なが)町・粉河(こかわ)町(2町とも現・紀の川市)にあった荘園。もと藤原頼貞の相伝所領であったが,経営に失敗した頼貞が山城石清水(いわしみず)八幡宮寄進,1064年立荘された。しかし1072年(延久4年)の荘園整理令で停止となる。1107年高野(こうや)山の大塔仏聖灯油料所として改めて立荘され,以後高野山の根本寺領の一つとして中世末まで維持された。高野山領としての立荘時には田41町余・畠82町余であったが,うち見作(げんさく)は田3町余・畠12町余にすぎず,大部分田代(たしろ)・畠代(開発予定地)が占めている。これが300年余を経た1432年の検注では田85町余・畠12町余に増大している。この開発の過程で当荘の西境を流れる水無川(現名手川)をめぐって粉河(こかわ)寺領丹生屋(にうのや)村と激しい用水・境相論を繰り広げた。当荘は中世を通じて5村(江川村野上村馬宿村中村西村)で構成されており,1432年の各村の田積,在家(ざいけ)数は,江川村14町余・8宇,野上村18町余・27宇,馬宿村21町余・24宇,中村14町余・4宇,西村15町余・6宇。在家数が野上・馬宿の二村に著しく多いのは,水無川左岸の中位段丘面に位置する両村が,早くから開発が進んだためであろう。なお当荘は南海道後身である紀伊大路(大和街道)に沿い,13世紀の半ばには市が成立していた。

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改訂新版 世界大百科事典 「名手荘」の意味・わかりやすい解説

名手荘 (なてのしょう)

紀伊国那賀郡(現,和歌山県紀の川市)の荘園。もと藤原頼貞の私領であったが,所領経営に失敗し,1064年(康平7)石清水(いわしみず)八幡宮寺に寄進された。しかし石清水八幡宮寺領としても長続きせず,72年(延久4)の荘園整理によって停止された。その後1107年(嘉承2)高野山の大塔仏聖料にあてる荘園として立券され,以後中世末にいたるまで高野山領として存続した。紀ノ川の北岸に位置し,東は桛田(かせだ)荘と静川荘に,西は粉河(こかわ)荘に接する。早くから村名がみられ,中世を通じて野上村,馬宿(うまやど)村,西村,中村,江川村の5村で構成されていた。1240年(仁治1)より,西堺の水無(みなせ)川と椎尾(しいのお)山をめぐって,粉河荘丹生屋(にうのや)村との間に用水・堺相論が起こった。相論の最大の争点は,水無川からの灌漑用水の確保にあり,少なくとも1467年(応仁1)まで紛争が続いている。1250年(建長2)の官宣旨でいったん決着がつけられたが,名手荘に不利な裁許であったため,かえって井堰を破壊したり,双方が武力を行使する事態に発展し,守護代が御家人を率いて用水中分の枓(とがた)を敷設することも行われた。1432年(永享4)には寺領再建のための検注が実施されており,当時の田数は85町4段余,畠数は12町余であった。なお当荘は伊勢・大和街道にそっており,市場が早くから成立した。1290年(正応3)から翌年にかけて,荒川荘に呼応するかたちで,金毘羅次郎義方と悪八郎家基による悪党事件が起こっている。
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