馬宿村(読み)うまやどむら

日本歴史地名大系 「馬宿村」の解説

馬宿村
うまやどむら

[現在地名]引田町馬宿

播磨灘に面した平野部の村。中央を馬宿川が北流し海に注ぐ。海浜に沿って漁業集落が形成された。西は引田村。古代の南海道が当村付近を通っていたとみられ、「延喜式」兵部省に記す引田駅が地内に比定され、馬宿の地名も駅家うまやが転訛したものと考えられている。

慶長一八年(一六一三)引田浦と馬宿浦の間で網場をめぐる争いがあり、「去年馬宿より立出候網場二通之内、おちのあみは一通ハ如先年立、新網ハ馬やとより引可申候、今一通之坂本之網場ハ如去年馬やとよりたて可申候事」という裁定が下されている(「生駒家家老連署状」瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)。また寛永七年(一六三〇)にも鰯網の他国参入があったため、網場の出入について扱い書が出されている(「鰯網出入覚書」同館蔵)。寛永国絵図では引田郷に含まれる。寛永一七年の生駒領高覚帳によると村高一六八石余。元禄八年(一六九五)には二〇六石余となり、新開二斗余。なお寛政三年(一七九一)頃には他村からの入作三八石余となっている。年貢は引田御蔵に納めた。同年の戸数七九・人数二九〇、牛四〇(以上、日下文書)溜池はなく灌漑はもっぱら馬宿川伏流水の出水によっている(池泉合符録)。文化三年(一八〇六)当村出身の久米栄左衛門(通賢)は従来の木製冷し桶に代えて、楽焼冷し瓶を採用して砂糖の結晶を促進させ、また文政二年(一八一九)には絞車を木製から石製に改造、豊島石を用いて竈を改良し燃焼効果を高めるなどの研究を重ねた(砂糖起源沿革盛衰記)

馬宿村
うまやどむら

[現在地名]粉河町馬宿

名手なて川東側の中位段丘上に位置し、北は野上のがみ村、東は西野山にしのやま(現那賀町)、南は市場いちば(現那賀町)に接する。中世は高野山領名手庄に含まれ、元暦元年(一一八四)一〇月日付の入寺寛全田地売券(又続宝簡集)に「在紀伊国伊都(ママ)郡名手御庄之内字馬屋戸」とみえる。また建長四年(一二五二)三月六日付の名手庄悪党交名注文案(同集)には「馬宿村」とみえる。永享四年(一四三二)の名手庄馬宿村検注帳(勧学院文書)によると、田数二一町八段三五〇歩。また同年の名手庄畠・在家検注帳(同文書)によれば在家数二四宇である。江戸時代は和歌山藩領で伊都いと郡代官所の管下に属した。慶長検地高目録によると村高一千一七一石余、小物成二石三斗六升。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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