吉高村(読み)よしたかむら

日本歴史地名大系 「吉高村」の解説

吉高村
よしたかむら

[現在地名]印旛村吉高

山田やまだ村の北、北印旛沼西岸に位置。「和名抄」に載る印旛郡吉高郷の遺称地とされる。対岸北須賀きたすか(現成田市)との間に渡しがあり、渡守甚兵衛翁の名をとって甚兵衛じんべえ渡と称された。佐倉惣五郎将軍に直訴する際に同渡を利用したといい、甚兵衛が船を出し手助けをしたと伝える。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分によれば高七四三石余、幕府領・旗本川口領の相給。翌一四年佐倉藩領となり、宝永二年(一七〇五)の年貢割付状(吉高区有文書)では高七二八石余、田五四町七反余(上田九町九反余・中田一三町余・下田三〇町八反余・下々田八反余)、畑二一町余(上畑二町二反余・中畑五町三反余・下畑一二町六反余・屋敷九反余)、新田畑一〇石余(二町五反余)、米納合一七五石余・永納合一七貫余。

吉高村
よしたかむら

[現在地名]舘岩村吉高

また川左岸、押戸おしど村の対岸にある。「会津風土記」に「吉高」とある。集落はかつて北方下の原しものはらにあったが、洪水のため現在地に移ったと伝える。貞享二年(一六八五)の「長江庄郷村地方風俗帳」に「咸畑方也」とあり、水が不便で最近まで水田がなく、主食はオカモノと称する雑穀が中心であった。元禄七年(一六九四)の村明細帳(星家文書)によると高三六石余、反別九町一反余で畑のみ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android