古京町(読み)ふるぎようまち

日本歴史地名大系 「古京町」の解説

古京町
ふるぎようまち

[現在地名]熊本市古京町・宮内・二の丸

三ノ丸の藤崎ふじさき台の北側、茶臼ちやうす山丘陵中腹の侍屋敷町で、周りを土居に囲まれる。「国誌」によれば「往日此所少カノ市店有リテ京町ト云其外ハ竹林ニテ宮内村ニ隣レリ当城築ノ日市店ハ移シテ今ノ京町トス故ニ此処ヲ古京町ト云」とある。古代の駅路が藤崎台付近を通過し、その頃の街道沿いの市店であったとする意見もある。加藤・細川氏時代は大身者の武家屋敷で占められていた。北東部には二ノ丸との境に百間石垣があり、城内の見通しをさえぎっていた。「国誌」や各種の熊本城絵図によれば、北部中央の現化学及血清療法研究所付近は築城の時の作事所であった。北西端は熊本城北西の第一要害であったため、三階の乾の隅櫓が築かれ、森本櫓とよばれた。この櫓は明和七年(一七七〇)坪井京つぼいきよう町からの火事によって焼失した。櫓の下には潮の干満を知る潮時しおどき石があった。櫓の前にはすな薬師があり、寛文一二年(一六七二)円了坊秀海が建立したとも、享禄年間(一五二八―三二)藤崎宮再営の年に建立した薬師堂とも、鹿子木氏建立の妙楽みようらく寺の薬師を円了坊が再建したともいう(国誌)。古京町の西に面して、宮内の槙島みやうちのまきしま坂から砂薬師の間に段山だにやますぎ馬場があり、その下に一寸榎といわれる榎があり、付近は昔斬罪場であったという。宮内から古京町に下る坂は柊木たぶのき坂とよばれた。武家屋敷が東は北出口門である新堀しんぼり御門横から、西は藤崎宮正門鳥居北側の山麓地まで広がる。北は東西にほぼ直線の茶臼山台地の崖縁で、西も茶臼山台地が円弧状に藤崎台地の最西端部と結ぶ崖線で、その山麓をぬって、島崎しまさき・宮内方面から古京町に上る唯一の砂薬師すなやくし坂が通る。古京町台地は豊前・豊後街道が通るため、武家屋敷も通りを監視・防備する形で配置された。百間石垣前も古京町に含まれるが、ここでは二ノ丸北御門より以西の武家屋敷について説明する。

二ノ丸北御門から百間石垣前の屋敷とを画する小路が北の崖まで通る。また柊木坂からの豊前・豊後街道が古京町台地のやや南側を東西に通る(現在の化学及血清療法研究所前の道)。また二ノ丸北西端の石垣から北の崖縁に至る小路が、豊前・豊後街道とほぼ直角に交差する。南へ延長した道は、現在新町一丁目から上るしん坂に結び付く道となる。さらに二ノ丸石垣から西の柊木坂に東西に下る小路がある。また柊木坂からの道は、一つは豊前・豊後街道として東折するが、一方はそのまま北に延びて袋小路となる。これらの南北の三本の小路と、東西の二本の通りにより、五区画と、柊木坂から北に入る袋小路に沿っての一区画の武家屋敷地帯が作られる。

古京町
ふるぎようちよう

[現在地名]岡山市古京町一丁目

旭川東の山陽道に沿って南北に発達した両側町。東は森下もりした町、南は川を限り向いは上片上かみかたがみ町、西は荒手屋敷、北は国富くにとみ村。寛永城下絵図では町名の記載はなく、慶安城下絵図では古京町とみえる。宇喜多氏時代には成立していたと思われる。「吉備温故秘録」によれば、古くは上道郡から御野みの郡への往来に大橋があり、当地に宇喜多直家の時代に町並ができはじめ大橋町と称した。その後当町で京都・大坂より商品を取寄せて商売する者が増えて京町と称し、橋も京橋と改称した。宇喜多秀家の時代の川筋変更に伴い文禄二年(一五九三)京橋を現在地に移し、当地の橋は古京橋といい、町名も古京町と改称したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報