厨川柵(読み)くりやがわのさく

日本の城がわかる事典 「厨川柵」の解説

くりやがわのさく【厨川柵】

岩手県盛岡市の市街西方にあった古代城柵平安時代末期に奥六郡(おくろくぐん)(のちの陸中)で大勢力を誇った豪族安倍氏が築いた。安倍氏の勢力圏の最北部に位置し、衣川柵と並ぶ安倍氏の重要な拠点だった。安倍氏の棟梁の安倍頼時が雫石川北上川の合流点の自然の要害を利用して建設し、頼時の次男安倍貞任(あべのさだとう)が拠点とした城柵で、前九年の役では安倍貞任と源義家らの最終決戦場となったところである。この戦いで安倍氏は滅亡した。厨川柵があった場所は特定されていないが、市内にある安倍館の遺跡や、その約1km北西にある里館遺跡は、その一部ではないかと考えられている(ただし、安倍館は厨川柵の支城、嫗戸(おばと)柵跡ではないかともいわれている)。JR東北本線・東北新幹線盛岡駅からバスで安倍館下車。◇「くりがわのき」ともいう。

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百科事典マイペディア 「厨川柵」の意味・わかりやすい解説

厨川柵【くりやがわのさく】

前九年の役の際,安倍貞任(さだとう)が最後に立て籠もった城柵。岩手県盛岡市の北上川と雫石(しずくいし)川の合流点付近にあったと考えられるが,遺構未詳。1062年出羽(でわ)の清原武則援軍を得た源頼義は,厨川柵を攻めて安倍貞任を討ったが,《陸奥話記》によると厨川柵は厨川柵と7,8町離れた嫗戸(うばと)柵からなっていたとされる。なお奥州征伐の際,源頼朝は藤原泰衡(やすひら)を討って藤原氏を滅亡させたのちも北進を続け,源氏ゆかりのこの地を訪れている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「厨川柵」の意味・わかりやすい解説

厨川柵
くりやがわのき

岩手県盛岡市北西部にあった平安時代の城柵(じょうさく)。陸奥(むつ)の豪族安倍(あべ)氏の拠点。北上川と雫石(しずくいし)川の合流点に近い大館(おおだて)遺跡にあてる説が有力である。前九年の役(1051~62)で源頼義(よりよし)・清原武則(きよはらのたけのり)連合軍に対する安倍氏の最後の抗戦場となり、1062年(康平5)9月17日ついに敗れ、貞任(さだとう)らは戦死、宗任(むねとう)らは降伏して安倍氏はまったく滅んだ。

[庄司 浩]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「厨川柵」の解説

厨川柵
くりやがわのさく

古代末期,東北地方の奥六郡を支配した安倍氏の軍事的拠点。奥六郡では最も北の陸奥国岩手郡に位置し,北上川流域の盛岡市に比定されている。「陸奥話記」には要害の地に立地し,楼・櫓を構えて兵力を蓄えたようすが記されている。1062年(康平5)安倍貞任(さだとう)・宗任兄弟が源頼義らに攻められて,安倍氏滅亡の地となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「厨川柵」の意味・わかりやすい解説

厨川柵
くりやがわのき

平安時代,東北地方の軍事的拠点としておかれ,岩手県盛岡市,北上川と滴石川との合流点付近にあったと思われる柵。前九年の役で,安倍貞任,宗任が最後の拠点として抵抗したが,康平5 (1062) 年,源頼義,義家父子に攻め滅ぼされた。

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世界大百科事典(旧版)内の厨川柵の言及

【安倍貞任】より

…57年に父頼時が戦死してからは,安倍一族の総帥となり,同年冬には黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡藤沢町)において頼義軍を破った。しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。源義家が〈衣のたてはほころびにけり〉とうたいかけ,貞任が〈年をへし糸のみだれのくるしさに〉とこたえたという故事は,衣川柵脱出のときのことという。…

【前九年の役】より

…この戦況を転回させる契機になったのが,出羽国の俘囚長清原武則の参戦である。62年7月武則の援助を得た頼義は,小松柵以下の安倍氏の砦を抜き,9月7日ついに貞任を厨川柵(くりやがわのさく)(盛岡市)に破った。貞任は戦死し,降参した宗任(むねとう)らの一族は伊予国と大宰府に流されて,安倍氏は滅亡した。…

※「厨川柵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」