相馬御厨(読み)そうまのみくりや

日本歴史地名大系 「相馬御厨」の解説

相馬御厨
そうまのみくりや

相馬郡のほぼ全域を領域として大治五年(一一三〇)に成立した伊勢神宮の御厨。史料上「当御厨」とするのは永暦二年(一一六一)正月の源義宗寄進状(櫟木文書)が早い例であるが、その後も御厨四至内の郷村は相馬郡内としてみえる場合がある。また鎌倉末よりみえる南相馬(現沼南町など)手賀てが沼以南の地域であるが、その郷村は相馬御厨内ともみえ、御厨(または相馬郡)内のまとまった地域として(おそらく相馬岡田氏の伝領分として)認識されていた。

〔御厨の成立前後〕

相馬郡は平良文以来、忠頼・忠常を経て常将―常永と相伝されたが、常永の死後その子孫は常時・常兼の系統に分れた。常永は相馬郡を常兼に譲渡したが、常永の死後、族長の立場は常時が継承し、相馬郡も支配することになった。常時は相馬郡の国役免除を、さらに相馬郡の一部「布瀬墨埼」を別符の地として雑公事免除を認められ、前大蔵卿を介して伊勢神宮に寄進した。すなわち布瀬ふせ・墨埼御厨である(久安二年八月一〇日「平常胤寄進状」・大治五年六月一一日「下総権介平経繁私領寄進状案」櫟木文書)。大治元年六月、常時は甥常重(常兼の子)を養子に迎え、相馬郡を譲渡した。常重はその直後に相馬郡司に任命され、同五年六月相馬郡布施ふせ郷を伊勢内宮に寄進した。この寄進に対し、神宮庁では庁判を押して寄進を確認。八月には口入神主である荒木田延明も誓約書を提出、一二月には下総国司が相馬郡司に庁宣を下して相馬郡布施郷を御厨と認め、許可を与えた。これにより相馬御厨が成立した(大治五年八月二二日「荒木田延明請文案」同文書など)

その範囲は、布施郷にかかわる史料の四至を含めて東の境「蚊虻境」は現茨城県利根町立木たつぎ、「須渡河江口」は立木の北方に位置する現同県龍ケ崎市須藤堀すとうぼり町近辺が考えられる。また「逆川口・笠貫江」は現利根町大房だいぼうの南東にカサヌキ沼があったから、立木に隣接する地であろう。西の境「廻谷」は「繞谷并目吹岑」あるいは「木埼廻谷」ともあるから、現茨城県水海道みつかいどう市西端の菅生すがお沼周辺ないし現野田市目吹めふき木野崎きのさきに比定できる。南の境「志子多谷」は現柏市篠籠田しこだ、「手下水海」は手賀沼である。北の境「小阿高」「阿太加」は現茨城県伊奈いな足高あだか。「衣河流」あるいは「絹河」は鬼怒きぬ川に比定されるが、当時は現小貝こかい川の流路を蛇行していた。したがって相馬御厨の範囲は現在の我孫子市と茨城県取手市・利根町・守谷もりや町・藤代ふじしろ町、それに柏市・野田市の一部ということになる。

相馬御厨
そうまのみくりや

相馬郡内の土地が寄進されて成立した伊勢神宮領の御厨(荘園)。大治五年(一一三〇)の下総権介平経繁私領寄進状案(櫟木文書)

<資料は省略されています>

とあり、平経繁(常重)が相馬郡布施ふせ郷を皇大神宮(内宮)に寄進し、相馬御厨が成立。寄進条件は、この寄進状案および同年八月二二日の荒木田延明請文案(同文書)によれば

(一)毎年の年貢として田一段につき米一斗五升、畠一段につき米五升のほか雉一〇〇羽、塩曳鮭一〇〇尺(尾)を納入する。

(二)年貢は二分し、半分は祭料として皇大神宮の一禰宜荒木田元親およびその子孫に、他は寄進の媒介となった口入くにゆう神主荒木田延明に納める。

(三)御厨の預所は現地の口入人源友定とし、その子孫に継承させる。

(四)御厨の下司職および田畠の加地子職は経繁に留保し、その子孫が相伝する。

の四点であった。久安元年(一一四五)の源某寄進状案(同文書)、同二年の下総国平常胤寄進状案(同文書)などによれば、経繁は保延元年(一一三五)二月に子の常胤(千葉氏)に御厨の諸権利を譲渡したが、翌年七月に下総守藤原親通が御厨内の公田に賦課される官物の未納を理由に経繁を捕縛。さらに相馬郷および立花たちばな郷を親通に譲るという内容の新券を作り、経繁・常胤父子の署判を責め取り、御厨を私領化して次男親盛に譲渡した。この対立に源義朝が介入し、親通の実力行使と経繁の従兄弟常澄の「浮言」を口実として御厨の譲状を経繁から奪い取り、久安元年三月に相馬御厨を皇大神宮に寄進。常胤は未納の官物を国庫に納め、翌年八月に相馬郡を再び皇大神宮に寄進している。相馬御厨は二重に寄進されたことになるが、この事件を契機に常胤は義朝の支配下に組込まれ、保元の乱には義朝の郎党として出陣している(保元物語)

永暦二年(一一六一)の源義宗寄進状案(櫟木文書)によれば、常陸国の豪族佐竹(源)義宗は藤原親盛から御厨を譲られたとして、同年正月に内宮・外宮に寄進。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「相馬御厨」の意味・わかりやすい解説

相馬御厨 (そうまのみくりや)

下総国相馬郡(現在の取手・我孫子・柏市の一帯)に設けられた伊勢神宮領。《神鳳鈔》によればその面積1000町歩に及ぶ。桓武平氏の流れを汲む平良文が開発し,平安末期にはその子孫である千葉氏が伝領するところとなった。1130年(大治5)下総権介平常重(経繁)のときに下司職を留保して伊勢神宮に寄進し,その後豊受大神宮にも寄進しており,二宮領御厨として室町時代まで続いた。常重の寄進状によると伊勢神宮へ寄進するに際して,荒木田延明を口入神主とし,供祭物として田畠地利上分と土産のサケを奉納し,加地子職ならびに下司職は子孫の相伝とする旨を記している。常重の子が鎌倉幕府創設の功臣千葉常胤であるが,彼が地主職を伝領したのは35年(保延1)2月であった。翌年7月国司藤原親通は伊勢神宮領であることを認めず,公田と称し官物未進の罪で常重を捕らえた。このため常胤は白布726反余を納め常重の釈放を果たした。同じころ源義朝は常重から圧状をせめ取り自領と称した。そこで常胤は上品八丈絹30疋,下品70疋,縫衣12領,砂金32両,藍摺布上品30反,中品50反,上馬2疋,鞍置駄30疋を国庫に進済し,郡司職を承認された。ここでは相馬郡を良文の私領とし,常胤みずから郡司ならびに御厨下司を称していることから,相馬郡そのものが相馬御厨であったか,または郡内での御厨は超絶した面積を占めていたと推定される。二所大神宮御厨と称したのは常胤のときであり,下司職をより強化しているが,一方では常重・常胤の時代が当御厨の最大の危機であったと言える。鎌倉時代に入ると千葉氏は下総国守護となり権限は絶大になった。鎌倉初期には一時後白河院領にもなったが,地頭職も常胤の子孫相馬氏が継承するようになった。ただし後にはその一部を新田岩松氏や禰寝(ねじめ)氏等も領有している。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「相馬御厨」の意味・わかりやすい解説

相馬御厨【そうまのみくりや】

下総(しもうさ)国相馬郡に設置された伊勢神宮領。同郡のほぼ全域が御厨であったとみられており,現茨城県取手(とりで)市・北相馬郡から千葉県我孫子(あびこ)市・柏市・野田市などにかけた広い地域にあたる。1130年平経繁(千葉常重)の寄進により成立。ただし加地子(かじし)取得権と下司職(げししき)は留保して子孫の相伝とした。その後御厨の領有権をめぐる複雑な争いがあって千葉氏の支配は排除されたが,1180年の源頼朝の挙兵に応じ,佐竹氏攻略に功のあった千葉常胤(常重の子)に下司職(地頭職)が回復され,その子孫相馬氏に相承される。なお経繁寄進時に年貢の半分が得分(とくぶん)とされた口入職(くにゅうしき)は神宮禰宜(ねぎ)度会(わたらい)氏を中心に相続され,度会氏は現地に代官を派遣して神税の確保を期したが,15世紀初頭を最後に御厨と神宮の関係は絶えた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「相馬御厨」の意味・わかりやすい解説

相馬御厨
そうまのみくりや

下総(しもうさ)国相馬郡にあった伊勢(いせ)神宮の御厨。その領域は茨城県北相馬郡と取手(とりで)市および千葉県我孫子(あびこ)市と柏(かしわ)市をも含む地域に比定される。平良文(よしぶみ)が相馬の地を開発し、1130年(大治5)にその子孫の相馬郡司(ぐんじ)平常重(つねしげ)が下総国相馬郡布施(ふせ)郷を伊勢神宮に寄進し御厨が成立した。その後、常重の官物未進を口実に、1145年(久安1)源義朝(よしとも)が郡務に介入し、郡内の一部を伊勢神宮に寄進するが、翌年、常重の子息千葉介常胤(ちばのすけつねたね)が父の未進を支払い、相馬郡司職に任じられ、改めて郡内の地を神宮へ寄進し、下司職(げししき)を留保する。やがて常胤の二男師常(もろつね)が当御厨を分与され、その子孫は相馬氏を称し地頭職を相伝する。本宗は師常―義胤(よしたね)―胤綱(たねつな)―胤村(たねむら)―師胤(もろたね)―重胤(しげたね)と継承され、南北朝期の重胤のとき陸奥(むつ)国行方(なめかた)郡(福島県相馬郡)へ本拠を移し、奥州相馬氏を形成する。また鎌倉期には、岩松(いわまつ)氏、島津(しまづ)氏、足助(あすけ)氏、安達(あだち)氏、摂津(せっつ)氏らが御厨内の諸郷を領有するが、これは義胤、胤綱の女子の婚姻によるものである。鎌倉幕府の滅亡で、足助氏、安達氏、摂津氏に伝領した所領は足利(あしかが)氏へ移り、のち、寄進によって鎌倉別願寺(べつがんじ)・香取(かとり)神宮領となる。一方、神宮との関係では、外宮(げくう)の度会(わたらい)氏が口入神主職(くにゅうしんしゅしき)を相伝し、神税の代銭納が行われてきたが、室町期に入り、雑掌(ざっしょう)を現地に派遣し、支配の再編を図った。しかし未進されることが多く、十分な支配は困難となった。

[平田満男]

『岡田清一著『中世相馬氏の基礎的研究』(1978・崙書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の相馬御厨の言及

【伊勢信仰】より

…伊勢神宮は元来〈国家至貴の神〉として皇室以外の奉幣を禁ずるなど,制度上重い地位にあったが,平安末期には王朝財政の衰えとともに支持が薄くなったため,神職団の一部はいわゆる御師(おし)としての活動を開始して,全国的に信徒(檀那)網を広げることに努めた。ことに東海・関東の地方には御師の勧誘により神領としての御厨(みくりや)・御薗(園)(みその)を寄進する豪族・武将が多かったが,なかで相馬御厨を寄進した源義宗の,〈これ大日本国は惣じて皇太神宮・豊受宮の御領たるの故なり〉という言葉は,よく信仰内容を物語っている。仏教との関係についても,もとは神宮が仏事関係を固く忌むとされたにもかかわらず,鎌倉時代には東大寺勧進職の重源,法相宗の貞慶,真言律宗の叡尊,時宗(じしゆう)の他阿など有力僧侶の参宮が相つぎ,真言宗の通海は,仏教への帰依が神宮崇敬と矛盾しないことを説き,禅密兼修の無住は《沙石集》において,〈外には仏法を憂き事にし,内には深く三宝を守り給ふ事にて御座(おわし)ます故に,我国の仏法偏(ひとえ)に太神宮の御守護によれり〉と述べている。…

※「相馬御厨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android