千束村(読み)せんぞくむら

日本歴史地名大系 「千束村」の解説

千束村
せんぞくむら

[現在地名]三和町字千束

土師はぜ川の広い河岸段丘上に位置し、福知山―京街道がほぼ北西から南東方向に貫く。北西は芦淵あしふち村、北東は河合かわい村、南東は細見辻ほそみつじ村。古くから街道沿いの主邑で、当地方の中心として栄えた。

「丹波志」に「古此所ニ鍛冶アリ、萩原村ヨリ刃ヲ作ラセ萩ヲ刈、千束ニ及(中略)、依之地名トナル」と地名由来を記す。

綾部藩領で、高一七一・二二石、民家四〇戸(丹波志)

佐藤信淵の「巡察記」は次のように記す。

千束村
せんぞくむら

[現在地名]台東区浅草二―五丁目・千束一―四丁目・竜泉りゆうせん三丁目東浅草ひがしあさくさ一―二丁目・日本堤にほんづつみ一―二丁目・清川きよかわ一―二丁目、荒川区南千住みなみせんじゆ三―四丁目

浅草寺において千束町と称されていた花川戸はなかわど町在方分・山之宿やまのしゆく町在方分・材木ざいもく町在方分を中核として構成されていた村。天保郷帳に千束村とあり、高五〇〇石、古くは門前もんぜん町・花川戸町・山之宿やまのしゆく今戸いまど村・橋場はしば町の内と注記される。高は慶長一八年(一六一三)浅草寺に与えられた朱印高に相当し、田園簿に記載される浅草門前町五〇〇石を受けるか。旧高旧領取調帳では居屋敷が町方支配に属していた各町は別に記載され、浅草寺領千束村は高三四六石余。

千束村
せんぞくむら

[現在地名]相知町大字千束

厳木きゆうらぎ川右岸の村。横枕よこまくら村との間に千束川が流れる。

本河内もとかわちの舌状台地、標高一八〇メートルの丘陵から昭和二四年(一九四九)縄文期の千束遺跡が発見された。この時代の竪穴住居跡としては、西日本最初の発見である。裏の谷うらのたにには弥生期の竪穴住居遺跡があり、字太良丸たろうまるには前方後円墳がある。

千束の地名は、沃田が多く稲のよく稔る里に由来するという。正保絵図に千束村の名がみえる。文化元年(一八〇四)幕府領となり、日田ひた郡代支配地となる。明治四年(一八七一)この村に御陣屋がつくられたが、使用されることなく廃絶した。

千束村
せんぞくむら

[現在地名]宇目町千束 岩崎いわさき

小野市おのいち村の東、市園いちぞの川の上流域に位置。とび山に豊薩合戦以前に見張番を置く塞があった(「宇目梓山覚書」中川家文書)正保郷帳に村名がみえ、田高一七一石余・畑高四五石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高一三八石余。寛政八年(一七九六)には小野市組に属し、村位は上、免六ツ六分(「高反別物成品々書抜帳」県立大分図書館蔵)

千束村
せんぞくむら

[現在地名]藤沢市高倉たかくら

さかい川の右岸の台地に位置。西は長後ちようご村、南は七次ななつぎ村、北は下和田しもわだ(現大和市)に接する。西を南北に八王子道(滝山道)が通り、東西に大山道が通る。小田原衆所領役帳は垪和又太郎「四拾五貫七百六十文 東郡千束 七ツ木」とある。天正一九年(一五九一)旗本川井領、慶長一九年(一六一四)旗本遠藤領となる。中世までは七次村に属していたようだが、寛永二年(一六二五)七月の遠藤重次への知行宛行状(県史八)では七次村と千束村が分けられているので、この頃には分村している。

千束村
せんぞくむら

[現在地名]犬飼町黒松くろまつ 黒松西くろまつにし

黒松村の西、柴北しばきた川北岸にある。江戸時代後期に黒松村から分村したとみられ、「豊後国志」に千束村とみえる。旧高旧領取調帳では一〇六石余。幕末まで岡藩領。元禄一六年(一七〇三)には千束井手が竣工している(地方温故集)。安永七年(一七七八)には柴北組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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