北平沢村(読み)きたひらさわむら

日本歴史地名大系 「北平沢村」の解説

北平沢村
きたひらさわむら

[現在地名]男鹿市北浦西黒沢きたうらにしくろさわ

男鹿半島北西部の海岸段丘上に位置し、北は日本海に面して断崖をなす。東の黒崎くろさき村とは谷川で境する。西に海岸段丘が続き、縄文中期の土器片や石器が採集される。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に北平沢村三九石とある。北平沢村は元禄期(一六八八―一七〇四)の藩庁帳簿に黒沢村と誤記されたが、享保期(一七一六―三六)に以前からの北平沢に改めたと記録される(「御判物御国絵図御用留書」県立秋田図書館蔵)。享保一四年の黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高二六石九斗七升八合とある。同一五年の「六郡郡邑記」は「平沢村 北の字加る」としており、家数一〇軒。元文五年(一七四〇)に打直しがあり、当高一一石四斗一升八合と半減、とくに本田高および免が下げられた(黒印高帳貼紙)

北平沢村
きたへいざわむら

[現在地名]八幡町北平沢

上荒田目かみあらため村の南にあり、南は南平沢村盛沢もりさわに平安時代の窯跡がある。出羽山地より西流する平沢川沿いに立地。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一七六石余、寛永元年庄内高辻帳では高二二五石余。寛文九年(一六六九)検地帳(旧一条村役場文書)の名請人は一七でうち屋敷持一一、保有地の最も多いのは新左衛門で二町六反余。地名は五六あり、稲荷町・ま王堂・祓大坪・まつり田・笹まき田・寺ノ入など寺社に関したものや、三十苅・四十苅など生産高を示したものもみえる。同検地帳にみえる「まつり田」と「いかつち」は長享三年(一四八九)書写の一条八幡宮祭礼日記(市条八幡神社文書)にもみられ、また現存する「ばら堰」は郷野目ごうのめ堰から分水し村内を南流する水路である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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