加納城跡(読み)かのうじようあと

日本歴史地名大系 「加納城跡」の解説

加納城跡
かのうじようあと

[現在地名]岐阜市加納丸ノ内

荒田あらた川の西、清水しみず川の南に位置する。県指定史跡。慶長五年(一六〇〇)徳川家康の命により築城されたという。現在一帯本丸跡を中心に加納公園となっており、本丸跡にはうずみ門・筋金すじがね門・てつ門などの跡がみられ、石垣はほぼ旧態を残す。北西隅の天守台跡は城中でもっとも高い。二の丸・三の丸跡には現在小学校などの公共機関が建てられている。

〔築城〕

当城は文安二年(一四四五)斎藤利永が築いた上加納城の跡を利用、拡張して築城されたといわれる。上加納城は土岐氏の居城革手かわて城の備えとして、上加納のうち沓井くつい郷に築かれたが、天文年間(一五三二―五五)廃城になったという(美濃明細記)。なお同城は瑞龍寺ずいりようじ山のあたりにあったとする説もある。慶長五年徳川家康関ヶ原の合戦の帰途、西に備えるための城を中山道の要地にあたる当地に求め、本多忠勝奉行として、東山・北陸の諸大名を動員して築いたとされる。平坦地であったため、新たに溝渠を構え、革手城跡・正法しようぼう寺跡・岐阜城から土石を運び礎地としたという。

加納城跡
かのうじようあと

[現在地名]桶川市加納 常敷

標高一五メートルの舌状にとび出た台地上を占め、東は元荒川と赤堀あかぼり川の湿地帯で、城跡の北側は深田、東・西も入江状の湿地で湧水がある。南はシバラ(芝原)と称される平地を隔てて、岩槻から鴻巣に通じる道、川越から菖蒲しようぶ町を経て茨城県古河市に通じる道に接する。シバラに接する道の近く、下加納には市場いちばの地名がある。遺構は外郭と居館のある内郭からなる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「加納城跡」の解説

かのうじょうあと【加納城跡】


岐阜県岐阜市加納丸之内にある城跡。1445年(文安2)に、美濃国守護だった土岐持益(ときもちます)の執権・斎藤利永(としなが)が築いた城跡。1538年(天文7)に斎藤氏の本宗が断絶し、斎藤氏の名跡を継いだ長井利政(後の斎藤道三)が、翌年、稲葉山城に本拠を移したため、加納城は廃された。その後、1600年(慶長5)に、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康が、翌年、西国への押さえとして落城した岐阜城のすべてを移して旧加納城を大拡張し、奥平信昌を封じた。城主は奥平氏から大久保氏、松平氏と転々し、永井氏3万2000石の代に明治維新を迎えた。二重の堀のある南北に細長い(南北約600m、東西約300m)平城で、本丸、二の丸、三の丸、南の丸などからなり、東と南、西は川を利用して外堀とし、総構えの大手門を中山道に面して設けた。内堀は本丸を取り囲む形で配置された。天守台はあったが天守は建てられず、代わりに御三階櫓(やぐら)が建てられていた。天守は当初は予定されていたが、時代の流れが名古屋城に移って不要となり、造られなかったという。城下町には中山道53番宿場の加納宿(かのうじゅく)があった。1983年(昭和58)に国の史跡に指定された。現在、二の丸以下はほぼ市街地となり、本丸と四囲の堀と石垣、土塁が保存されており、近世における平城の貴重な遺構である。名鉄名古屋本線茶所駅から徒歩約13分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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