瑞龍寺(読み)ずいりゅうじ

精選版 日本国語大辞典 「瑞龍寺」の意味・読み・例文・類語

ずいりゅう‐じ【瑞龍寺】

[一] 富山県高岡市関本町にある曹洞宗の寺。山号は高岡山。承応三年(一六五四)加賀藩三代藩主前田利常が先代の兄利長の菩提所として広山恕陽(こうざんじょよう)を開山に創建。仏殿・法堂(はっとう)・総門は当初の建築で、禅宗寺院の古制を残す貴重な遺構である。
[二] 滋賀県近江八幡市宮内町にある日蓮宗唯一の尼門跡。文祿五年(一五九六豊臣秀吉の姉妙恵日秀尼(瑞龍院)が子の秀次の菩提(ぼだい)をとむらうために京都今出川村雲(上京区竪門前町)の地に創建。のち皇族、摂家が代々入山した。昭和三八年(一九六三)現在地に移された。村雲瑞龍寺。村雲御所

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日本歴史地名大系 「瑞龍寺」の解説

瑞龍寺
ずいりゆうじ

[現在地名]高岡市関本町

高岡山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。開山は広山恕陽。前身は加賀二代藩主前田利長が、金沢宝円ほうえん寺の広山を招いて富山に開いた法円ほうえん寺で、慶長一八年(一六一三)高岡町に招致された(瑞龍閣記)。寺号は越前高瀬宝円たかせほうえん(現福井県武生市)にちなむといい、織田信長夫妻並びに信忠廟が造立された(「貞享二年寺社由緒書上」など)。翌年利長が没したので、その位牌(瑞龍院殿聖山英賢大居士)安置寺となり、瑞龍寺と改称された。利長没後間もなく前田利家・利長の廟も築造された。

加賀三代藩主前田利常は兄利長の菩提追福のため新たに伽藍造営を計画し、正保二年(一六四五)に着手(瑞龍閣記)、承応三年(一六五四)一二月寺領三〇〇石を寄付させ、翌年三月には境内に禁制を下し、四月には寺領収納地として手洗野たらいの村が充てられた。明暦二年(一六五六)には落成したとされる(瑞龍閣記)。しかしその後も作事は続き、万治元年(一六五八)の利常没後も、孫の綱紀により継続され、寛文三年(一六六三)に完成した。同年は利長五十回忌法要の年にあたっている。伽藍は範を中国浙江省の径山万寿寺にとり、加賀藩御抱大工の山上善右衛門嘉広を棟梁として造営された。その荘厳は「伽藍瑞龍」としてとどろきわたっているが、現存する建物で創建当時のままといえるのは総門・仏殿・法堂・高廊下・大茶堂である。

瑞龍寺
ずいりようじ

[現在地名]岐阜市寺町

金華きんか山から南に延びた支稜瑞龍寺山(一五八メートル)南麓に位置。金宝山と号し、臨済宗妙心寺派(東海派)に属する。応仁元年(一四六七)美濃守護代斎藤妙椿が守護土岐成頼のために建立し、悟渓宗頓を開山として迎えたことに始まるというが、実際の上棟はそれ以前と思われ、「碧山日録」長禄三年(一四五九)三月八日条に「瑞龍」とある。悟渓がここに縁を結んだのは、厚見村にあった天台の廃寺跡を修行地にしたいと斎藤妙椿に申入れたのが端緒となったと伝え、文明一一年(一四七九)上洛して京都大徳寺五二世となるまでは当寺にいたと思われる。その間、文明二年には後花園上皇から金宝山の勅額を、後土御門天皇からは準十刹の綸旨を与えられている(同年三月一四日「後土御門天皇綸旨」寺蔵文書)

瑞龍寺
ずいりゆうじ

[現在地名]七戸町 後川原

通称むかい町の北に位置し、南に金剛こんごう寺がある。祥雲山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「瑞龍寺 五十石 祥雲山曹洞宗、八戸領名久井村法光寺末山、七戸隼人直時公墓牌名証山自公大居士正保四丁亥年三月十六日」とある。明治初年の「新撰陸奥国誌」によれば永禄元年(一五五八)の草創で、開山は法光ほうこう(現三戸郡名川町)五世舜桂と伝える。

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デジタル大辞泉プラス 「瑞龍寺」の解説

瑞龍寺

富山県高岡市にある曹洞宗の寺院。山号は高岡山、本尊は釈迦如来。加賀藩2代藩主、前田利長の菩提寺として建立。山門、仏殿、法堂などは国宝に指定。

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