前山村(読み)まえやまむら

日本歴史地名大系 「前山村」の解説

前山村
まえやまむら

[現在地名]長尾町前山

讃岐山脈の北斜面に位置する山村。鴨部かべ川上流部とその支流である桜谷さくらだに川・たに川の流域に耕地がある以外はほとんど山林である。わずかに北が開けて長尾名ながおみよう村に接している。古墳時代前期の丸井まるい古墳があり、室町時代に長尾庄地頭寒川氏が昼寝ひるね城に拠った。

寛永国絵図の記す長尾庄一六ヵ村のうち大田尾おおたお葛野くずのえのき星越ほしごえ大井谷おおいだに紙漉かみすきを併せて前山村が成立した。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳には前山とあり高二六〇石余。

前山村
まえやまむら

[現在地名]上田市大字前山

上田市の西南、塩田平しおだだいらの南端、独鈷とつこ(一二六六メートル)の北麓の複合扇状地上に位置する集落。東は西松本にしまつもと村、西は手塚てづか村、北は本郷ほんごうに接し、東前山と西前山に分れる。

初見は、天正六年(一五七八)上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)に「(前)山郷、四貫文」とみえる。天正一〇年武田氏滅亡の後、真田氏が前山の地七貫文を塩野しおの神社(延喜式内社)に寄進したことが塩野神社文書(塩野神社蔵)に記されている。慶長一三年(一六〇八)真田氏上田藩の貫高帳(大井英夫氏蔵)には「三百四貫六百六十文 前山」とあり、元和元年(一六一五)三月に、藩主真田昌幸が、家臣原半兵衛に与えた領内仕置書の追而書に「前山より出候うるし此方へ可指上候旨」(君山合偏)とあるので、漆の産地であった。

前山村
まえやまむら

[現在地名]紀伊長島島原しまばら

赤羽あかば川右岸にあり、東は久賀くが峠を境として長島ながしま出垣内でがいとに接し、南は小名島地しまじを経て島地峠を境とし長島浦加田かたに接する。村域北端のツヅラト峠は、紀伊と伊勢の国境をなす。「紀伊続風土記」は「元来前山村は中桐村の分村なり、よりて当村の産土神中桐村にあり、陸坂(久賀峠)は中桐村の前にあれは前山といひたるを、此村其山下にあるを以て遂に村名に呼ひ、また小名下地は村の丑の方十五町にあり、赤羽川の下にあるを以て下地の名あり」と記している。

前山村
まえやまむら

[現在地名]佐久市大字前山

小宮山こみやま村南境の前山村のじよう山南麓に広がる村。おおむね鱗渓堰りんけいせぎなか村を境する。

貞祥寺開山歴代伝文(貞祥寺蔵)の延徳元年(一四八九)の記事に「信州佐久郡前山邑洞源山貞祥禅寺」とみえる。天正二年(一五七四)の大井文書には、伴野ともの一二郷に「前山之郷」とみえる。慶長一五年(一六一〇)の貫地帳(竹内文書)に「四百五拾貫文 前山村」、元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)には「八百三十四石六斗 前山村」と記す。江戸前期仙石氏領のあと、親藩領・幕府領と代わって享保一〇年(一七二五)高野たかの町知行所領となり、安永六年(一七七七)再度幕府領となって明治に至る。

前山村
まえやまむら

[現在地名]鷹巣町前山

鷹巣盆地西端部、南流して米代川に注ぐ前山川の下流域に位置する。慶長二年(一五九七)の浅利頼平領内村数覚書(秋田家文書)に「前山村 畠 家まへハ十五今ハなし」とみえる。中世後期を通じ浅利氏領であったが、天正期(一五七三―九二)中頃安東(秋田)氏領に包摂される。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には新田として八六石とあるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とある。枝郷に山道やまみち村があり、宝永四年(一七〇七)本村の前山村が川欠けのため流失、枝郷山道村に移ってそこを前山村に改名したという。享保一五年の戸数は六戸で、枝郷の二本杉にほんすぎ村は「先には民家十軒、困窮に付退き今人居絶」とある(六郡郡邑記)

前山村
まえやまむら

[現在地名]庄川町前山

金屋岩黒かなやいわぐろ村の南、閑乗寺かんじようじ台地の庄川に近い中腹にある。井波瑞泉いなみずいせん寺の建立以前、綽如の草庵が置かれた杉谷すぎたには当村を指すという(瑞泉寺記録帳)。慶長一〇年(一六〇五)の年貢皆済状(菊池家文書)に前山村とみえ、同年の年貢米は二六俵。元和五年(一六一九)の家高新帳では坪野組に属し、役家数三。正保郷帳では高三六石余、田方二反・畑方二町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四〇石・免五ツ一歩、小物成は山役一二四匁。

前山村
まえやまむら

[現在地名]細江町中川なかがわ

三方原台地の北西端に位置し、北西は下刑部しもおさかべ村。本坂通が通り、三千六五〇間にわたって松並木があったが(東海道宿村大概帳)、昭和二〇年代の道路拡幅などによって伐採された。天正一〇年(一五八二)四月中旬に作成された井伊直政所領注文(蜂前神社文書)に「前山村」がみえる。正保郷帳では田方二三石余・畑方一七石余、浜松藩領。以後の領主の変遷は上刑部村と同じ。旧高旧領取調帳では陸奥白河藩領。

前山村
まえやまむら

[現在地名]常滑市金山かなやま

北は小倉おぐら村・久米くめ村に接する。「寛文覚書」によれば、概高七八三石余、田三三町七反六畝余・畑一三町一反五畝余、家数一〇〇、人数五八二。村内に小倉村雨池・田があり、当村の田畑小倉村および久米村地内にある。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)によれば元和六年(一六二〇)には付家老竹腰山城守五四六石余の給知であった。のち全村蔵入地。新田には寛保三年(一七四三)の亥新田三二石余、天保三年(一八三二)の辰新田八石がある(知多郡之記、尾張国知多郡村高帳)。享保二一年(一七三六)八七人に及ぶ年貢の未進金借入者を出し、その借入額は二九〇両余に及んだ。

前山村
まえやまむら

[現在地名]京ヶ瀬村前山

東は七島ななしま新田、西は関屋せきや村。近世前期は新発田藩岡方組の五ヶ村組に属し、寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数一一・人数五七とある。天明二年(一七八二)の岡方組万雑組立帳(倉島肩吾氏蔵)によれば役石は七六石二斗余で、四貫七一文の組万雑を負担している。寛政元年(一七八九)幕府領となり(「御上知村附写」豊栄年表資料)、同一二年の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)の村高は四二石五斗余で、岡方組に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報