別役村(読み)べつちやくむら

日本歴史地名大系 「別役村」の解説

別役村
べつちやくむら

[現在地名]安芸市別役

しま村の北、伊尾木いおき川上流の山間に位置し、北は阿波国。字影野かげのから西南方の畑山はたやま村に通じる小道がある。北部の阿波国境に久々場くくば(一四一七メートル)、西部にすぎたに(一三六七・一メートル)、東に烏帽子えぼしもり(一三二〇・二メートル)宝蔵ほうぞう(一二四九・二メートル)などの山々があり、集落は山間に散在する。

延慶元年(一三〇八)二月の城普請定書(安芸文書)によれば、安芸親氏が領内の安芸川・伊尾木川に沿う村々に出役を求めたうちに「別役名」がみえる。天正一七年(一五八九)の東山八名地検帳に別役名があり、八一筆一〇町四八代三歩が記されるが、うち八町二反八代は切畑で、屋敷を除くと下々畠(下山畠)が二反一二代四歩、田はわずかに一筆一反三〇代しか記されない。

別役村
べつちやくむら

[現在地名]物部村別役

岡内おかのうち村の北東槙山まきやま川中流北側の山間部に集落が点在。「土佐州郡志」には「芹坐宇・津々呂宇村等、惣曰別役」とあるが、現在瀬次郎せじろう津々呂つづろ宇根うね阿野地あのじの小集落がある。東は一宇いちう村、北は勘定かんじよう(一三三四メートル)を隔てて上韮生かみにろう川沿いの久保くぼ村。

大忍おおさと庄槙山郷に属する。延慶二年(一三〇九)三月二〇日付で大忍庄槙山と韮生山の境界を定めた政所書状(蠧簡集木屑)に「別役 宗久名内」とみえる。村名の起源は不明だが、天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳には「是ヨリ奥別役ノ村」として一〇筆が記され、地高一町五反四〇代とある。三〇代の田を除けばすべて山畠屋敷で、居屋敷の記載はなく、別役彦二良の給地。「別役土居」が記されるので、彦二良はここに居住していたのであろう。

別役村
べつちやくむら

[現在地名]香我美町別役

香宗こうそう川最上流部にある山村で、末清すえきよ村の北東にあたる。「土佐州郡志」は「縦二十町余横二町余」と記す。嘉吉三年(一四四三)一〇月五日付専当外十二名連署状(安芸文書)の名主連署のなかに「別」の名がみえるのがはやいが、南北朝時代にはすでに別役名が成立していたのは確実とされる。

江戸時代の別役村は天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳にみえる東別役ノ村・北谷きただに村の地にあたり、検地面積七町九反余で、論所二五代のほかは別役三吉郎ら九名の給地。

別役村
べつちやくむら

[現在地名]東洋町野根のね 別役

なか村の西南方、野根川支流別役川をさかのぼった山間の新田村。白浜しらはま村の開発者明神忠右衛門の次男伊信彦右衛門が開き、この地一八〇石と河内かわうち村のうち二〇石の計二〇〇石を知行地として天和二年(一六八二)藩留守居組に加わり、のち馬廻格に進んで野根在番役も勤めた。村は別役の名のとおり明神家の知行所として野根郷中でも別扱いにされ、名本は置かず、組頭が明神家の差配人を兼ねたらしい。

村高一八〇石のうち一〇〇石分は、谷川のはけ水が激しいため早くから荒川成となり、残る八〇石に一〇石たらずを開き加えて二十数戸が生活していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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